66歳の元世界3階級制覇王者ウィルフレド・ベニテス(プエルトリコ)=53勝(31KO)8敗1分けが、緊急集中治療室へ入院。プエルトリコの神童の回復を、世界中のボクシングファン、関係者が祈っている。ICUに入るベニテスに付き添うのは妹のイボンヌさん。

ベニテスはアマで129戦123勝の記録を残し、1973年11月22日(日本時間23日)にプエルトリコでプロデビューし、初回KOで初陣を飾る。この時、16歳2ヶ月。これはルール違反で本来なら、未成年者へのライセンス発行は、法に触れるので刑務所行きとなるが、幸い周囲にバレる事はなかった。

マジソン・スクエア・ガーデンの著名マッチメイカーテディ・ブレナーは、「ウィルフレッドが洗礼証明書を見せたので、ボクサーのライセンスを取れる年齢(18歳)だというのを信じてしまった」と語っている。

4歳のウィルフレッドにボクシングの手ほどきをしたのは実父のゴーヨ。プロボクサーになる事を夢見ていたゴーヨだが、女4人、男4人の8人兄弟を育てる為に生活に忙しく、選手志望の夢は捨てざるを得なかった。しかし、4人の息子には幼い頃からボクシングを教え込んだ。4人の息子に教えるテクニックは、ニューヨークの街で行われる大試合へ、なけなしの金をはたいて観戦に行き覚えたものだった。

米ニューヨーク州ブロンクスで生まれ育ったウィルフレッドが8歳の時に一家はプエルトリコへ移住。ベニテス家の裏に特設されたジムで特訓を施されるようになる。この時、近所の子供も仲間に入ってくるが、その中の一人に元WBC世界ライト級王者エスデバン・デ・へススがいた。ヘススは1972年11月にマジソン・スクエア・ガーデンで”石の拳”ロベルト・デュラン(パナマ)と対戦し、初黒星を与えている。

デビュー以来25連勝を続けたウィルフレッドは1976年3月6日(日本時間7日)、プエルトリコ・サンファンのヒラム・ビソーン・スタジアムで、WBA世界スーパーライト級王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア)への挑戦が決定する。当時のセルバンテスは、難攻不落。10度の王座防衛記録を誇り、とてもじゃないがウィルフレッドが勝つ事は不可能。地元からもミスマッチの声しきりだったが、父ゴーヨが「絶対勝てるから」と、周囲の反対を押し切り、コミッションを説得。

「7500ドルのファイトマネーは全部親父にやるから、俺をチャンピオンにしてくれ!」と懇願し、トレーニングに没頭したウィルフレッドは、コロンビア初の世界王者で英雄のセルバンテスに臆することなく迫り、後半疲れの見えた王者から貴重なポイントを奪い、147-145、148-144、145-147のスプリット判定で勝利。17歳6ヶ月で史上最年少世界王者となった。

しかし、若き王者は世界王者に導いてくれたトレーナーである父に造反する。「親父は俺の心まで支配しようとした。俺だってもうガキじゃない。自分の考えがあるんだ」。

2度の防衛に成功したウィルフレッドだったが、セルバンテスとのリマッチを前にガールフレンドとのドライブ中に交通事故を引き起こし、重傷を負い試合はキャンセル。王座は剥奪された。

前世界王者となったウィルフレッドは、1977年11月、日本でもお馴染みのブルース・カリー(米)と対戦するが、父の言う事に全く耳を傾けず、この試合に費やした練習時間は、なんと「賞味1時間しかなかった」と告白。試合前日までディスコに入り浸りの毎日だった。

4回。ウィルフレッドは2度キャンバスに落下。5回にも再びダウン。KO負け寸前のピンチであったが、その後は何とかごまかして試合終了。ニューヨーク州のラウンド採点システムに助けられた形で、7-3、5-4、4-5の判定で幸運な勝利を得た。

カリーはこの試合内容が大いに認められ、世界ランキング2位に抜擢され、翌78年2月4日(日本時間5日)に場所は同じくニューヨーク・マジソン・スクエア・ガーデンで、ウィルフレッドとのリマッチが組まれたが、この試合を前に1月26日に東京へやって来たカリーは、7戦全KO勝ちの杉谷 実 (協栄)選手を軽く3回でKO。その強さを見せ付けた。

しかし、ウィルフレッドは苦戦しながらも2-0判定でカリーに勝利。その後もキャリアは続くが、試合前に姿をくらませたり、すっかり練習嫌いになった。そこでゴーヨは、自分の代わりにマイク・タイソン(米)を育てたカス・ダマトにトレーナーを依頼。だが、ダマトも「わがままが強すぎて、自分の手には負えない」と早々に手を引いた。

「彼のトレーニングは、俺の知っている事ばかりだ。それを一からやり直せといわれても、俺にはバカらしくてやる気が起きなかった」(ウィルフレッド)

一方のダマトは、「この道には彼の知らない事が多い事を、聞こうとしなかった」とコメントしている。

ダマトの後に指導に就いたのは、元2階級制覇王者のエミール・グリフィス(米)。そして、新コンビはWBC世界ウェルター級王者カルロス・パロミノ(メキシコ)を攻略し、二つ目のタイトルを獲得する事に成功する。

王座獲得から70日後の1979年3月25日(日本時間26日)、一度引き分けているハロルド・ウェストン(米)との初防衛戦が決まる。親父の手を借りずに世界王者になったウィルフレッドは有頂天。父への反発は強まるばかりで、ジムとはおさらばの日々が続いた。

父ゴーヨも、息子への干渉をやめた。ウェストン戦のその最中、彼は競馬場にいた。友人が差し向けたラジオから聞こえたのは、ウィルフレッドが一方的に攻め込まれ、このままでは敗戦必死と叫ぶアナウンサーの絶叫。

これを聞き試合場へ乗り込んだゴーヨは、コーナーへ駆け上がり、いきなりビンタを喰らわせた。「何てザマだ。飛び込んで行って、ヤツを殺してしまえ!」と怒鳴りつける。9ラウンド終了時の事である。

後半猛反撃したウィルフレッドは、判定で勝利し、初防衛に成功。ゴーヨは息子のチーフトレーナーに返り咲く。そして、シュガー・レイ・レナード(米)戦を迎えるのであるが、ウィルフレッドは反抗的態度を改めず、父の言う事を聞かない。

「ウィルフレッドはレナードに負ける!」

この父の予言は当り、ウィルフレッドは15回KOでレナードに敗れ王座を失った。これが、プロ7年目の初黒星だった。その後リングに復帰したウィルフレッドは、1981年年5月にモーリス・ホープ(英)を破り、WBC世界スーパーウェルター級王座を獲得。3階級制覇に成功し、世界を驚かせた。

この王座はロベルト・デュランに勝ち2度の防衛に成功したが、1982年12月にトーマス・ハーンズ(米)に敗れ王座陥落。この後、4階級制覇を期待された天才王者は、階段を転げ落ちるように転落していった。ラストファイトは1990年9月。リングで稼いだ金は、何も残っていなかった。