1968年9月27日(日本時間28日)、米・カリフォルニア州ロサンゼルスのメモリアル・コロシアムで、WBA世界フェザー級王者ラウル・ロハス(米)=35勝(22KO)2敗=の持つ王座に挑戦した、同級2位西城正三(協栄)=16勝(3KO)5敗=選手は、5回にダウンを奪い15回文句ない判定勝利で見事に世界王座を獲得。3万4千人の大観衆の前で、日本人初となる海外での世界王座奪取に成功。無名から一躍世界フェザー級王者となった西城選手には、「シンデレラ・ボーイ」の称号が与えられ、日本ボクシング界の歴史を塗り替える衝撃的な勝利だった。
新人王戦は決勝で敗れた。その後、アゴの骨を3ヶ所も折られた経験を持ち、8回戦に上がった途端に喫した連敗。国内ではまだメインイベンターを務めた事がなく、10回戦の経験は僅か2試合だけ、「俺ももうダメかな」と思う事もあった西城選手は伸び悩んでいた。
そんな西城選手に米国遠征の話が持ち上がったのは、先にロサンゼルスへ遠征していた、ロッキー・宮下選手、高橋勝郎選手の活躍により、「もう一人ボーイが欲しい」というロサンゼルスのプロモーターからの話を受けてのもので、西城選手の風貌に似合わぬ気の強さと、ガッツ、非凡な能力を見抜いていた金平正紀会長は、「環境変えてやるのもいいだろう」と、西城選手にロサンゼルス行きの話を持ち掛けた。
「飛行機に乗った事なかったもんで」という西城選手は、「金の取れるボクサーになりたい」と夢を抱き、1967年12月も押し迫った頃、金平会長らとロサンゼルスへ旅立った。立て替えてもらった飛行機代も、稼いだファイトマネーで返そうという長期遠征。これからは試合をしなければ生活出来ないサバイバルな環境。相手がどうのこうのとは言っていられない。21歳の誕生日を前にしての事だった。

西城選手の海外初試合はメキシコ遠征。1968年1月7日(日本時間8日)にシナロア・デ・レイバで、65戦のキャリアを持つイグナシオ・ピナ(メキシコ)との10回戦は判定負け。野天の試合会場、みんなピストル、ナイフを持っているような場所で、控室には電球は無く、外でバンテージ巻いてリングに上がった。
「そういう状況の中で、西城は全然あがらなかったですからね、この野郎勝ってやろうという気持を非常に強く持っていて、これは気の強いやつでいいなと。これなら大丈夫。十分やっていけるだろうと思いました」(金平会長)。
口惜しい敗戦にも西城選手は全然めげていない。ファイトマネーが、「手取りで20万円くらいになったからねェ」。1ドル=360円の時代。日本では考えられない金額だった。「どんどん試合して稼がなくては」。1月25日(日本時間26日)にはロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで、トニー・アルバラード(米)と対戦し、4回TKOで海外初勝利を飾る。
そして、最初のチャンスはいきなりやって来た。2月15日(日本時間16日)、オリンピックで世界フェザー級ランキングに名を連ねる無敗のメキシカン、ホセ・ルイス・ピメンテルとの一戦が決まる。「失うものなどなにもない」という強い気持ちでピメンテルに立ち向かった西城選手は、世界ランカーを窮地に追い込み、勝利したかと思われたがスプリットの判定負け。
これにはメキシカンが大半を占めるオリンピックの観衆が大騒ぎ。「ホームタウン・デシジョンだ。もう一度やらせてやれ!」と、ファンが後押し。すぐに再戦が組まれた。3月21日(日本時間22日)、会場は同じくオリンピック。「こん畜生。今度はハッキリ勝負つけてやる」と気合十分の西城選手は、ダウンを奪い文句なしの判定でピメンテルを撃破。渡米後、僅か3ヶ月で世界ランキング入りを果た。これも信じられない快挙だった。

ヤンチャな小学生時代を送っていた西城少年は、目黒区権之助坂にあった野口ジムの前で遊んでいたが、坂道で転び、手をくじいてしまう。それを介抱してくれたのが、元日本フライ級王者で二代目会長となる野口恭氏であった。恭氏は時代に先駆けベビー・ボクシングに力を入れており、西城少年はタフネス西城を名乗りボクシング活動を開始する。
元日本ウェルター級王者野口進氏により創設された野口ジムは1950年創設の名門で、ライオンと称された進氏は、元東洋フライ級王者三迫仁志選手の世界タイトル獲得にその全てを賭けたが、ついに世界王座への挑戦機会は訪れないまま三迫選手は引退。そして、西城選手が所属する事になる協栄ジム創設者の元日本バンタム級1位金平正紀氏も同ジム所属選手として活躍した。
西城選手のトレーナーを務めていたのは5歳年上の兄、正右氏。正右氏は西城正男というリングネームで、野口ジムからプロデビュー。金平会長と同じプログラムでリングに上がった事もあったが、若くしてリング生活を断念。ボクシングの夢を”弟”に託そうと決めた正右氏は、正三選手を連れて古巣の野口ジムに通い出した。
選手とトレーナー、二人でジムに現れ、練習が終わると二人で帰る。欧米では当たり前のスタイルだが、クラブ制となっている日本のジムでは受け入れられないスタイルで、他のトレーナーとの摩擦等もあり、いずらくなり3ヶ月ほどで野口ジムを辞める事になる。その後は日大の道場を借りさせてもらったが、これも長くは続かなかった。
当時、小林弘選手を要する恵比寿にある中村ジムが、”トレーナー・システム”を採用した、新しいジム経営に乗り出したという話を聞いた正右氏は、中村ジムを訪ね「弟の面倒を見たいんですが、練習させてもらえませんか」と切り出したが、「トレーナーならうちにいっぱいいるよ」と、ピシャリと断られてしまう。
「どうする兄貴」
「そうだなぁ・・・」
ここで正右氏の頭に思い浮かんだのが、当時、人気絶頂の海老原博幸選手を抱えていた、野口ジムの先輩、金平正紀氏であった。「やはり日本では、フリーのトレーナー専門でいくのは無理なのかもしれないな。なぁァに、断られて元々じゃねぇか」と、悲観的な気持ちを持ったまま二人は、金平ジム(当時)の門を叩く。
1963年晩春。恐る恐る希望を申し出た二人に思わぬ答えが返って来た。「あ~、いいよ、いいよ。道場は空いているんだから、いつでも好きな時に使いなさいよ」。金平氏は当時としてはあり得ない申し出を、あっさりと受け入れ、西城選手のプロボクサーへの道がスタートする事になったのである。

世界ランキング入りを果たした西城選手には早速、次の試合が用意されたが夜遊びでケガをしキャンセルとなってしまう。しかし、何が災いするかわからない。ケガによってスケジュールが空いていた西城選手に、ロサンゼルスをホームタウンとする世界王者ロハスからノンタイトル戦での対戦オファーが入った。
せっかく世界ランキングに入った大事なホープ。「まだ体も出来てないからやめとけ。帰って来い」。金平会長は、もっと十分なキャリアを積ませるつもりだった。しかし、金平会長の心配をよそに、西城選手の心は躍る。「ロハスと是非やらせて下さい。それほど怖い選手じゃありません。勝つ自信があります」とキッパリ言い切り金平会長を押し切った。
「あの時はしめたと思いましたね。世界チャンピオンと試合が出来る。日本にいた時は考えられなかったことだもの。負けてもともと、そう思ったら怖さなど感じませんでしたよ」と西城選手は振り返っているが、「ハッキリ言って、ファイトマネーに惹かれてやった試合」と正直な胸の内も明かしている。

ロハス戦でのファイトマネーは7500ドル(270万円)。1968年、日本の大卒初任給の平均は3万600円であり、西城選手の言葉には説得力がある。そして、「負けて元々で行ったら勝っちゃった。今考えると、よく勝てたと思いますよ。なにしろ世界チャンピオンですからねぇ」。
6月6日(日本時間7日)、オリンピックのリングで西城選手に0-2判定で敗れたロハスは、1965年5月にビセンテ・サルディバル(メキシコ)の持つWBC王座に挑戦し、最終15回残り10秒でTKO負けを喫して以来キャリア2度目の黒星となったが、敗れてもなお自信を持ち、プロモーターのアーリン・イートンも、コンディションを整えた本番ではロハスが借りを返すと見て、今度は世界タイトルを賭けての再戦をオファーして来た。
再戦は西城選手が6回にダウンを奪う圧勝で15回判定勝ち。全く無名の若者がアメリカへ渡り、僅か9ヶ月間で世界の頂点に立った。日本人初の海外での世界奪取を成し遂げた西城選手には、”シンデレラ・ボーイ”という称号が贈られたが、顧みると全ての運は繋がっていたように思われます。

ハンサムなマスクも手伝い、シンデレラ・ボーイの人気は一気に大爆発。21歳で世界王者となった西城選手は3年間で、6度のタイトル戦とノン・タイトル戦8試合を戦い、ラストファイトとなった1971年9月のアントニオ・ゴメス(ベネズエラ)戦では、10万ドル(3600万円)の報酬を得た。手にしたファイトマネーの総額は、2億円とも3億円ともいわれている。
当時、プロ野球ジャイアンツのスーパースター・長嶋茂雄選手の年俸が4560万円。世界ヘビー級王者ジョー・フレージャー(米)の最高報酬は1970年2月のジミー・エリス戦での15万ドル(5400万円)だった。
「海外でやりたい、やりたいっていうなら、相手がどうのこうのじゃなく、行ってやってみればいいんだよ。一生懸命頑張ればチャンスはやって来るさ。俺だって何にもなかったんだから」
西城選手がシンデレラ・ストーリーを成し遂げてから半世紀以上の年月が過ぎた。しかし、第2の西城は誕生していない。現代版シンデレラ・ボーイは出現するのか。今後のボクシング界に期待。