1991年2月3日、愛知県名古屋市の国際展示場。”東海のロッキー”畑中清詞(松田)=21勝(14KO)1敗1分=選手が、WBC世界スーパーバンタム級王者ペドロ・デシマ(アルゼンチン)=26勝(18KO)2敗=の持つ王座に挑戦。劇的な逆転8回TKO勝利で、中部地区初の世界王者が誕生した。
畑中選手は1988年2月に名古屋・レインボーホールでヒルベルト・ローマン(メキシコ)が保持していたWBC世界スーパーフライ級王座に挑戦。東海地区始まって以来のビッグスター、人気絶頂の畑中選手の世界王座奪取が大いに期待されたが、初回にダウンを奪われると老練なローマンの術中にはまりズルズルとポイントを失い大差の判定負け。
名古屋から世界チャンピオンを。期待が大きかった分、その反動も大きく、地元の熱は急速に冷めた。21歳のホープは初めての挫折を味わう。
「あの時までは一人でやってました。トレーナーもおらんで・・・」と言う畑中選手は、「それからお願いしたんですわァ、先生に」と、松田ジムの生え抜きである津々見敏英氏にトレーナー就任を要請。「俺なんかにお前みたいな才能ある選手は教えられんわ」と固辞する津々見氏を、畑中選手は時間をかけて説得。
新コンビは階級を上げ、再び世界王座への階段を上り始めた。ローマンに敗れてから2年半の時間をかけ、ようやく迎えた2度目の世界挑戦は、強打のデシマが相手。3ヶ月前に米・カリフォルニア州イングルウッドのフォーラムでポール・バンキ(米)から3度のダウンを奪い4回TKO勝ちで新王者となっていたデシマの前評判は高かった。

そして第1ラウンド、デシマのワン・ツーを喰らった畑中選手はダウン。ローマン戦での悪夢が蘇る。会場は暗いざわめきに包み込まれたが、今度は一人ではない。強い信頼関係で結ばれていた津々見トレーナーの指示を冷静に聞いた畑中選手は、慌てることなく巻き返しに入る。
4回、右クロスを決めた畑中選手はさらに右ストレートを追撃、ダウンを奪い返す。再開後、左フックで2度目のダウンを奪い、そしてワン・ツーで3度目のダウンを奪う。しかし、ここも試合は再開。連打で4度目のダウンを奪うが、メキシコ人のホセ・ガルシア主審は試合を止めなかった。

試合の流れは完全に畑中選手に傾いた。7回、左ストレートでダウンを奪うと、8回にも強烈な左を突き刺しデシマをキャンバスへ落とすと、ガルシア主審はカウント途中で試合をストップ。第8ラウンド、3分TKOで畑中選手が勝利。名古屋初の世界チャンピオン誕生に会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
この世界再挑戦は地元名古屋のCBCがキーとなり生中継されたが、TBSは同時間帯に”綱引き選手権”を放映。深夜放送もなく、関東地区ではTV放映始まって以来となる世界タイトル戦未放送となった。後年、畑中氏は「綱引きに負けたんですわ」と笑い飛ばしていたが、TBSには抗議が殺到。後日、ガッツファイティングの枠内で試合は録画放映された。

この試合の中京地区の視聴率は19.6%。別大マラソン13.9%、パンパシフィック・オープン・テニス8.1%をはるかに上回る好視聴率を記録。名古屋地区での畑中選手の人気がいかに突出していたかが伺える。
中部地区のボクシングの歴史を塗り替えた世紀の一戦。そして、この試合を観てボクシングを志した若者も多数。現在の中部地区ボクシング界の礎となっている。
