1974年4月11日。東京・日大講堂で開催されたWBC世界ライト級タイトルマッチ。王者ロドルフォ・ゴンサレス(メキシコ)へ、ガッツ石松(ヨネクラ)選手が挑む試合の予想はひどいものだった。石松選手の勝利を予想する者は皆無に等しい。ボクシング・マガジン誌の予想では、”石松の善戦どこまで?。石松兄ィの悔いなき善戦を期待する”とされ、善戦だけが期待されていた。
試合前に伝えられていた王者ゴンサレスの戦績は、52勝(42KO)5敗。対する挑戦者の石松選手は26勝(14KO)11敗5分。前年9月にはWBA王者ロベルト・デュラン(パナマ)の地元に乗り込み世界王座にアタックするも、欲のなかった石松選手は「ファイトマネー良かったし、10回までは頑張ろうと思って」の言葉通り、予定の10回にキャンバスへ沈んだ。
「最初から勝てる気がしなかった」と言いながらも、「なんて不甲斐ない。俺は世界の石松になれないのか」と石松選手は男泣き。大きく落胆し、肩を落としての帰国だった。しかし、そんな石松選手に思わぬ幸運が迷い込む。デュランに敗れたばかりの石松選手に、再起即世界戦というチャンスが転がり込んで来た。
時代はTVボクシング時代。プロボクシング協会は二つに分裂していた。日本テレビで午後7時半から放映されたデュランvs石松戦の視聴率は9.8%(関東地区・以下同)。同門の柴田国明選手が、10月17日にハワイでベン・ビラフロア(フィリピン)に敗れWBA世界スーパーフェザー級王座を失った試合は、初回KOにもかかわらず17%(日本テレビ・午後8時~)を記録。
日本テレビのボクシング番組は好調で、11月29日に上原康恒(協栄)選手が沖縄でWBC世界スーパーフェザー級王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)と戦ったノンタイトル戦が12%(7時半~)。石松選手と仲の良いライオン古山(笹崎)選手が、パナマでアントニオ・セルバンテス(コロンビア)の持つWBA世界スーパーライト級王座へ挑戦した試合は14.5%(7時半~)の数字をあげていた。

AがだめならCがあるさと揶揄された、WBC王者ゴンサレスへの石松選手の3度目の世界挑戦試合は、1974年1月17日に東京・日大講堂での開催が決る。デュランのボディブローで10回TKO負けを喫してから、僅か4ヶ月しかない。
ロサンゼルスをホームタウンとするゴンサレスは3度目の防衛戦。マネジャーはジャッキー・マッコイ。プロモーターはロサンゼルスで西城正三(協栄)選手に世界挑戦のチャンスを作ったドン・チャージンで、戦後の日本ボクシング界の根幹を担ったハワイのサム・イチノセ氏とは固いつながりがある。イチノセ氏は、「義理に厚い人」として有名だった。
イチノセ氏は石松選手に敗れ東洋王座を追われ、海外武者修行へ出た門田新一(三迫)選手をハワイでプロモート。1973年7月、ゴンサレスに敗れた前世界王者のチャンゴ・カルモナ(メキシコ)をホノルルへ呼び寄せ、門田選手と対戦させる。
ロサンゼルスからハワイへ来て3戦全勝と好調だった門田選手は、カルモナを7回KOで破りイチノセ氏の期待に応え、世界ランキング入りを決めた。イチノセ氏は親交厚いマッコイが持つゴンサレスの王座に、ハワイで門田選手を挑戦させる事を画策。
しかし、マッコイの下には別ルートからゴンサレスvs門田の東京開催が持ち込まれる。ゴンサレスの報酬が東京開催の方1万ドル(360万円)高い事を知ったイチノセ氏は、ハワイ開催を諦める。しかし、マッコイはイチノセ氏に対し、門田選手と戦う前に他の選手とやってもいい、「誰か適当な選手はいないか」と持ち掛ける。
そこで浮上したのが石松選手である。ヨネクラジムの米倉健司会長は選手時代、ハワイのスタンレー・イトウ氏に預けられた時期があり、イチノセ氏の口利きで世界王座に挑戦している。選手引退後、ジムの会長となった米倉氏はハワイへも多くの選手を送り込み、関係は良好である。
「安くてもサムが入るなら石松とやろう」(マッコイ)と、イチノセ氏が入り石松選手のゴンサレス挑戦が決まり、ゴンサレスが防衛すれば次に門田選手が挑戦するという事で話はまとまった。

石松選手のトレーナーには腕利きのエディ・タウンゼント氏がやって来た。デュランのボディブローでキャンバスへ沈んだ石松選手に、「ボディで倒れるボクサー、とてもハズカシい。石松、ボディ打たれてジーッとガマンしてちゃダメね。ミミズだってからだ半分ちぎれても”コンチクショー”って暴れるでしょ」とやる気を促す。
この時まで鈴木石松としてリングに上がっていた石松選手は、「もっとガッツのあるところ見せて」と周囲の人々が願いを掛けて、リングネームを”ガッツ石松”に変えられた。この時の石松選手は、「勝ったら元の鈴木石松に戻します」と遠慮がち。
タウンゼント氏とのコンビで初めての日本での世界挑戦に張り切っていた石松選手だが、試合は9日前になってゴンサレスが毒蜘蛛に刺されたという理由で延期される。
「せっかくやる気になっていたのに。チケット代は使っちまったし、あの野郎!」
一時は無期延期とされたが4月に開催が決った事で、石松選手は2月28日に行われる柴田国明(ヨネクラ)選手の再起即世界挑戦となったWBC世界スーパーフェザー級王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)戦の前座で、ノンタイトル戦に出場。ジニー・クルス(フィリピン)を4回KOし、気を吐いた。
かくして4月11日。交通ゼネスト真っ只中の日大講堂で、石松選手3度目の世界挑戦試合のゴングが鳴った。前に出ては得意のボディブローを繰り出すゴンザレスを、左と足で交わす石松選手。試合は予想に反し互角の流れで第8ラウンドを迎える。

タイミングを読んだ石松選手は、矢のようなワン・ツーを決めダウンを奪う。ゴンサレスがまさかのダウン。会場は興奮の渦となった。しかし、ロサンゼルスからやって来たラリー・ロサディラ主審は、信じられないようなロングカウントで試合を再開させる。
再開後、パンチをもらう前に倒れたゴンサレスにスリップ・ダウンを宣告し、起き上がれないゴンサレスを自らが引き起こすという離れ業をやってのけた。反則を訴えるセコンド陣を抑えた石松選手は、再びゴンサレスに襲い掛かり左右連打を打ち込み完全にノックアウト。日本人選手として初めての世界ライト級王者となった。
石松選手は「あれが俺の言ってた幻の右です!」とKOパンチをアピール。両手を挙げて勝利の喜びを表わした。その姿をスポーツ新聞はこぞって「ガッツポーズ」と表現。周囲の人々が願いを掛けて命名した”ガッツ”が、一気に世の中に浸透した瞬間でもあった。
