1995年12月19日、竹原慎二(沖)選手は東京・後楽園ホールで、WBA世界ミドル級王者ホルへ・カストロ(アルゼンチン)の持つ世界王座へ挑戦。圧倒的不利の予想を覆し12回判定勝ちを収め、日本人選手として始めて世界ミドル級王座獲得に成功した。
沖ジム・宮下 政 会長は協栄ジム出身。竹原選手が広島から上京したばかりの頃は、まだ自前の道場がなく宮下&竹原コンビは、明日のチャンピオンを夢見て協栄ジムで汗を流していた。
1989年5月プロデビューを果たした竹原選手は、無敗の快進撃で全日本ミドル級新人王を獲得。ちょうどそんな頃、ロシア人ボクサーのペレストロイカ軍団が大挙して来日。竹原選手は、五輪金メダリストのスラフ・ヤノフスキーらに揉まれて強くなっていった。
新人王から日本タイトル、次いでOPBF王者となり、日本人未踏の世界ミドル級王座獲得を目指す竹原選手を、歌でバックアップしたのが、宮下会長の後輩で”人間の証明のテーマ”などのヒット曲で知られる、協栄ジムOBのジョー・山中氏。オリジナル曲『熱いバイブレーション』は、颯爽とリングに登場する竹原選手によく似合った。
地元ではあまりの素行不良から、「広島の粗大ゴミ」と呼ばれていた竹原選手を王者に導いた宮下会長も広島出身だが、若い頃は竹原選手に劣らない、いや、それ以上に”ヤンチャ”な青年だったと聞いている。
2013年1月12日に新宿ワシントンホテルで行われた、宮下会長の古希を祝うパーティーは、多数のOB、関係者を集め盛大に行われたが、「宮下君は高校生の頃から広島では大変”顔を”売っておりましたが、広島抗争では2度ほど死にそうな目にあいまして、それを私が助けて、このままじゃいかんからということで、東京へボクシングさせに行かせました」と語ったのは、広島出身の協栄ジムの大先輩である山村若夫氏(立大→協栄・写真左。右は広島時代に指導した福井廣海氏)。
しかし、やんちゃだった宮下選手の素質はかなりのもので、東京に来たその日に当時中目黒にあった金平ジムで、宮下選手の味見(スパーリング)をしたのが、山神淳一トレーナー(湘南山神ジム会長)。
「あれは昭和37年だったかなァ。なかなかいい素質を持っているのが、わかりました。私も当時は若かったですから」。
「宮下がロサンゼルスでいい試合したから、また来てくれって話がありまして。だけど、その時彼はもう結婚してたんですね。だったら、奥さんと一緒に行ったらって話しもあったんですけど、結局、誰かもう一人一緒に行かせることになって、それじゃあ正三(西城)を行かせようかってことになったんです」(山神氏)。
昭和40年当時、宮下選手は18勝(14KO)5敗とう、当時の日本人フェザー級選手としては、破格のKO率を誇っており、試合は海外のファンを喜ばせた。
1967年(昭和42年)。年も押し迫った頃、日本では大した実績を残していなかった西城選手は、金平正記会長、宮下選手と一緒にロサンゼルスへ旅立った。そして西城選手は、僅か9ヵ月後に世界フェザー級チャンピオンとなり、”シンデレラボーイ”として日本へ凱旋帰国。大変な人気ボクサーとなり、一世を風靡する事になる。
「先輩(宮下氏)がいてこその俺」は、西城氏の口ぐせである事は、協栄ジムOBの知るところです。
「宮下先生は、俺が中学生で協栄ジムに入った時の最初の先生だから」と、宮下先生を尊敬する元協ジム・マネジャーでエディ・タウンゼント賞を受賞した大竹重幸氏は、竹原選手のデビュー戦から世界挑戦前までの全ての試合をマッチメイク。
「竹原、勝って良かったなァ。宮下先生の為にもうれしいよ!」
大竹氏をはじめ、協栄ジムOBは、宮下氏が育てた竹原選手の世界王座獲得を心から喜んだ。あれから29年、時が過ぎるのは早すぎますが、あの時、私は所沢の建築現場にいたなァと鮮明に記憶が蘇ります。竹原氏は現在、竹原慎二&畑山隆則ボクサ・フィットネス・ジムを主催。後進の指導にあたっている。師匠に続く世界チャンピオン育成が期待されます。