5月6日、東京ドームに4万3千人の観衆を集め開催された、4団体統一世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。WBC、WBO、IBF&WBAスーパー王者井上尚弥(大橋)=28戦全勝(25KO)=選手が、WBC世界同級1位の指名挑戦者ルイス・ネリ(メキシコ)=35勝(27KO)2敗=を、6回1分22秒TKOで破った試合の井上選手のファイトマネーは、10億円超となる事を所属ずる大橋ジムの大橋秀行会長が示唆。井上選手は日本ボクシング史上で初めて、日本人選手として10億円越のファイトマネーを手にした。

その後、井上選手はサウジアラビアの総合娯楽庁(GEA)が主催する”リヤド・シーズン”と、推定総額30億円のスポンサー契約を締結。来年予想されるサウジアラビアでの試合報酬は、20億円ともささやかれている。

しかし1980年代にもアメリカで億単位のファイトマネーを稼ぐ事が出来る事を期待されたボクサーがいた。元WBA世界スーパーウェルター級王者の三原 正 (三迫)=24勝(15KO)1敗=選手に対し、トップランクのボブ・アラムは、「WBC同級王者ウィルフレッド・ベニテス(プエルトリコ)となら、60万ドル(約1億3200万円・当時の相場、以下同)。ウェルター級王者シュガー・レイ・レナード(米)となら75万ドル(1億6500万円)。それぐらいの価値はある」と、三原選手を評価した。

WBAの世界戦指名試合が入札に持ち込まれるようになったのは、1980年11月の総会で認められてから。その第1号が、当時スーパーウェルター級1位にランクされていた三原選手と、王者アユブ・カルレ(ウガンダ)の世界スーパーウェルター級指名戦。この入札を落札したのは、ボブ・アラム率いるトップランクで、日本では考えられない破格の好条件が三原選手に提示された。

三原選手のファイトマネーは5万ドル(約1100万円)。他に、これまでの待ち代1万ドル、雑費が5千ドルプラスされ、合計6万5千ドル(約1430万円)。当時の挑戦者のファイトマネーは1万ドル(約220万円)が相場だった。

カルレvs三原戦は、1981年4月にデンマークのコペンハーゲンで開催されることが決定。カルレは工藤政志(熊谷コサカ)選手から王座を奪ったサウスポーのテクニシャンでパンチもあった。4度の防衛を果たしていた無敗王者カルレの実力は、高く評価されていた。

しかし、入札と時を同じくして、シュガーレイ・レナード(米)がロベルト・デュラン(パナマ)とのダイレクト・リマッチを制し、WBC世界ウェルター級王座を奪回。初防衛を果たしたレナードは、2階級制覇を目指しカルレの王座に食指を延ばす。

これによりアラムは、三原陣営に「1回待った」を交渉し、カルレvsレナード戦勝者との対戦を約束する。1981年6月25日(日本時間26日)に、米・テキサス州ヒューストンのアストロドームで行われた、カルレvsレナード戦のアンダーカードに三原選手は、顔見見せで出場。ラモン・ディオニシオ(フィリピン)に5回KO勝ちを収めている。

同日のメインイベントではレナードがカルレを9回TKOで破り2階級制覇に成功。だが、レナードはスーパーウェルター級王座を返上。レナードとの対戦を反故にされた三原選手は、1981年11月7日(日本時間8日)に米・ニューヨーク州ロチェスターで行われた、WBA世界スーパーウェルター級王座決定戦で、無敗のロッキー・フラット(米)を15回判定で破り、見事に世界王座を獲得。

初防衛戦は、「勝てる相手」として同級10位デビー・ムーア(米)が挑戦者に選ばれ、1982年2月2日に東京体育館で挙行された。この試合にはアラムも来日。勝てば、米国でのビッグファイト開催を目論んでいたが、凱旋帰国での初防衛戦で固くなった三原選手は、ムーアに6回KOで敗れ王座陥落。

僅か百日天下で終わり、100万ドルファイトは夢に終わった。三原選手のファイトマネーは2千2百万円と伝えられている。

三原選手陣営はムーアに対しオプションを保有していたが、これはロベルト・デュラン(パナマ)に譲られ、1983年6月16日(日本時間17日)、米・ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたムーアvsデュランのタイトル戦は、「負ければ終わり」と見られていたデュランが、若き王者ムーアを粉砕。8回TKO勝ちで蘇ったデュランは、マービン・ハグラー(米)、トーマス・ハーンズ(米)とのビッグマッチへ繋げていった。これに介在したのもやっぱりアラムだった。