12月31日に東京・大田区総合体育館で開催が決まっていた、WBA世界スーパーフライ級タイトルマッチ。王者フェルナンド・”プーマ”・マルティネス(アルゼンチン)=17戦全勝(9KO)=に、前王者で、現在6位にランクされる井岡一翔(志成)=31勝(16KO)3敗1分=選手が挑むタイトル戦が、前日になり急遽中止となった。マルティネスが25日にインフルエンザに感染した事が原因。不慮の事態ではあるが、日本プロボクシング史上初の世界戦前日中止は、今後への大きな波紋を残した。
興行はセミファイナルに組み込まれていた、WBA世界スーパーフェザー級挑戦者決定12回戦(主催者発表)。WBA世界同級9位 堤 駿斗(志成)=5戦全勝(2KO)=選手と、元世界同級王者で14位にランクされるレネ・アルバラード(ニカラグア)=34勝(22KO)14敗=の一戦をメインとして行われるが、主催する志成ジムは、希望者にはチケットの払い戻しを行うと発表(興行を観戦した場合は払い戻し不可)している。
大晦日恒例となり、今度が13度目の試合出場となる予定だった井岡選手の胸中は察するに余りあるが、それを対戦相手に対し、一切ぶつけない姿勢は尊敬に値する。そして、大晦日出場が13度目だったという記録も凄い。
日本ボクシング界は、大晦日にNHKで放映される紅白歌合戦が81.4%(1963年)もの視聴率を誇っていた時代から、大晦日興行で敢然と怪物番組に挑戦していた。
19歳のファイティング原田(笹崎)選手がポーン・キングピッチ(タイ)を破り、世界フライ級王座を獲得し、日本人選手として二人目の世界王者となった1962年はまさしくボクシングブームで、11月は毎日興業が行われ、テレビでも1週間7日間放映された。
大晦日は京都で東洋フライ級タイトルマッチ。王者チャチャィ・ラエムファパー(タイ=チオノイ)に、海老原博幸(協栄)選手が挑むタイトル戦が行われた。しかし、当日計量でチャチャイはオーバーウェイト(53.2キロ)により王座剥奪。挑戦者の海老原選手はリミットの50.8キロで計量をパスしており、体重差があったものの、海老原選手が勝てば東洋王者となる条件で試合は行われた。
試合は海老原選手が12回判定で勝利し、リング上で東洋チャンピオンとして認定されたが、試合後数日経ってからタイ側は、この試合で2オンスのグローブハンデを付けられた事に対し異を唱える。そして、このクレームが認められ海老原選手の王座は取り消され、幻となった。
この試合の前座には立教大学から協栄ジム入りした山村若夫選手と、宮下 功 (元沖ジム会長)選手も出場していたが、新チャンピオンとして新春を迎えた22歳の海老原選手はすこぶるご機嫌で、山村選手と連れ立って正月の京都競馬場へ向かう。
「わしと海老原さんは、電車賃だけ残して全部競馬で勝負しよったんよ。だけどの、全部やられて、すってんてんになってしもうたんよ」(山村氏)
その後の王座取り消し。海老原先輩の腹立たしさは、さぞかしだったろう。
1963年大晦日は東京・後楽園ジムで、東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、王者の 関 光徳(新和)選手が、強豪、 徐 強一(韓国)の挑戦を受け判定勝ち。翌年3月1日には東京・蔵前国技館で世界フェザー級王者シュガー・ラモス(キューバ)の持つ王座に挑戦したが、6回TKO負け。
しかし、当時の 関 選手の人気は凄まじく、”喝采”(1972年)で日本レコード大賞を受賞する事になる、ちあきなおみ(1947年生れ)さんは、「芸能界へ入れば、あこがれの 関 光徳選手に会えるかもしれないと思っていた」と、 関 選手への想いを語っている。
関 選手は1964年にも2年連続で大晦日のリングに登場。福岡市九州電力体育館で、挑戦者ロジリオ・トロンガリ(比)を判定に破り、東洋フェザー級王座の防衛に成功。放映はフジTVで、3年連続となる大晦日のボクシング放映だった。
そして、1964年大晦日には東京でもボクシング興行が行われた。TBSの定期番組『東洋チャンピオン・スカウト』の黄金カードとして、世界バンタム級5位斉藤勝男(暁→現全日本パブリック)選手と、世界フライ級5位高山勝義(新日本木村)選手の試合が組まれた。
当初、斉藤選手は世界バンタム級4位ジョー・メデル(メキシコ)との一戦を予定していたが、メデルが病気で来日不可能となり、ピンチヒッターとして高山選手の出場が決った。会場は日大講堂。
この年9月、世界バンタム級2位にランクされていたロニー・ジョーンズ(米)を鮮やかな3ラウンドKOで破り、世界の檜舞台へ躍り出た斉藤選手は、比国遠征で不運な星を落とした以外は、国内では無敵の21連勝(5分)を続けていた。
一方の高山選手選手はデビュー戦こそ敗れたが、その後は全日本新人王を獲得し、ノンタイトル戦ながら日本王者の斎藤清作(笹崎)選手破った星を含め22連勝(2分)と絶好調。両選手共に世界王座に近い位置にあった。
試合はバンタム級の斉藤選手が勝って当然と予想されていたが、唯一の不安材料として「減量が心配」とされていた。そしてその心配が見事に当たってしまう。ウェイトが落ちない斉藤選手は、「ウェイトを作る自信がない」と書置きし、ジムからトンズラ。
TBS 森 忠大プロデューサー、プロモーターである斉藤選手の田中敏朗会長、高山選手の木村七郎会長の3人は、この事態に頭を抱え真っ青に。大晦日の生放送の大一番の中止は許されない。
「切符全部売れちゃってるから、やめるわけにいかない」と言う両会長は、お互い協力し合い、斉藤選手の行方を捜索。
「あの時は困ったなぁ」
「どこ探してもいないんだから」
「まいったよなぁ・・・」
「二人で探し回ったよ」
「いろんなとこ行ったよなぁ」
ようやく斉藤選手を見つけ出したのは試合の2日前。血気盛んな田中会長もさすがに、「疲れちゃって、怒る気力も無かったよ」という捜索劇でありました。
当日計量は高山選手が53.8キロ、斉藤選手が53.1キロでクリア。試合は10回判定で高山選手が勝利した。
「よく見つかったよなァ」
「ほんとだよなぁ」
当時を振り返る両会長のお話からは、大ピンチを乗り切り、興行を完遂した安堵感が強く伝わり、生放送を実現する事が出来た 森 プロデューサーも、「中止だったらと思うと、今でもゾッとするよ。やくやれたよ」と振り返っておられました。
井岡選手。2025年こそは、13度目となる大晦日の試合出場を実現してもらいたいものです。願わくば、世界王者として。