元日本フライ級王者田辺 清 悲運の名ボクサー 「ボクシングは拳じゃないんだよ。足なんだよ!」 高田馬場アオキ・ジム

1960年ローマ五輪フライ級銅メダリストからプロ転向。日本フライ級タイトルを獲得した田辺 清 (田辺)=21勝(5KO)無敗1分=氏が、秋晴れの昼下がり、散歩の途中で青木ジムを思い出したという事で、突然、高田馬場にあるAOKIジムを訪れた。そしてそこには、田辺氏のボクシング人生の最大の勝利。1967年2月に行われた世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ(アルゼンチン)とのノンタイトル戦での6回TKO勝利に、トレーナーとして貢献したエディ・タウンゼント氏の功績を称える、エディ賞受賞者の大竹重幸氏が指導者としていた事で田辺氏もビックリ。

アカバリョ戦を前に請われてトレーナーとしてやって来たタウンゼント氏は、田辺氏のガードを少し下げ、「攻撃95%のボクシングにした」と、パンチがスムーズに打てるようなスタイルを指導。3回にダウンを奪った田辺氏は、高山勝義(新日本木村)、海老原博幸(協栄)選手ら、日本の一線級が勝てなかったアカバリョを圧倒。6回TKOに破る金星を挙げた。

アカバリョとの再戦は7月15日(日本時間16日)にアルゼンチン・ブエノスアイレスで世界王座を賭けて戦う事に決まったが、田辺氏は試合を前にしたキャンプで、「エディさん、金魚が黒く見えるよ」と、右目網膜剥離を発症。世界タイトル挑戦は幻に終わり、田辺氏はリング生活に終止符を打つ事になった。

タウンゼント氏は、「一番かわいそうはタナベね」と何度も繰り返した。引退後、田辺氏はタウンゼント氏に対し、「アカバリョに勝たせてくれた。この感謝の気持ちは言葉では言い尽くせないね。エディさんの教えは、今でも心の中に深くしみこんでいますよ」と語り、「田辺、君は僕のベストフレンドよ」と、言われた出会いの日を忘れない。

上写真は2017年2月に行われた「エディ・タウンゼント偲ぶ会」にて。大竹氏を挟んで左は大竹氏のトレーナーも務め、井上尚弥(大橋)選手の実父、真吾氏にボクシングの手ほどきをした中村 隆 先生。右は偲ぶ会の会長田辺氏。

AOKIボクシングジムは、不二拳闘倶楽部を興した岡本不二氏の不二拳からデビューした、ファイター全盛の時代にアウトボクサーとして活躍したテクニシャン青木敏朗氏が引退後、高田馬場に開設。その志を受け継ぎ現在に至るが、協栄ジムでマネジャー&トレーナーとして、佐藤 修 、坂田健史の2人の世界王者を指導した大竹氏が、縁あって若い選手の指導に当たっている。

つい最近も教え子である坂田選手の子息が、「お父さんより大竹先生に習いたい」?という事で、親子そろってAOKIジムを訪れトレーニング。青木敏朗会長が育てた元日本バンタム級王者大木重良氏のお孫さんも練習を継続しており、場所柄もあり、老若男女、国籍問わずのボクサー達で連日盛況を呈している。

「誰でもミット持ちますよ」という大竹氏は、親子会員はお得なんですよとアピール。

久々にジムの空気を味わった1940年生まれの田辺氏は、大竹氏に「ボクシングは拳じゃないんだよ。足なんだよ」と、アドバス。現在でも至って壮健で、「凄くお元気そうで安心しました」(大竹氏)

思えば無念の引退を決意した田辺選手の代わりにアルゼンチンで、アカバリョの世界王座に挑戦したのは海老原選手だった。その後、「海老ちゃん、新宿まで走るのよ!」と声をかけ、世界王座奪還に寄与したタウンゼント氏は、海老原選手のラストファイトでもトレーナーを務めている。協栄ジムの歴史を知る大竹氏と田辺氏の偶然。人を大事にしていると、こういう事があるものだとつくづく感じます。

boxing master

金元 孝男(かなもと たかお)。1960年生まれ、静岡県出身。元協栄ボクシングジム契約トレーナー 。ジャパン・スポーツ・ボクシング・クラブ・マネジャー。輪島功一選手の試合をテレビで観たばっかりに16歳で上京。プロボクシングの世界へ。1978年のプロデビュー。引退後はハワイの伝説のトレーナー、スタンレー・イトウ氏に師事。ハワイ・カカアコ・ジムで修行。協栄ジムでは元WBA世界スーパーバンタム級王者佐藤 修 、元WBA世界フライ級王者坂田健史らをアシスタント・サポ-ト。

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