1968年メキシコ五輪ヘビー級金メダリストで、元WBA、WBC、IBF世界ヘビー級王者のジョージ・フォアマン氏が、21日(日本時間22日)に逝去。フォアマン氏の家族がSNSで公表した。享年76歳。 「私たちは最愛のジョージ・エドワード・フォアマン・シニアが2025年3月21日に愛する人々に囲まれながら安らかに息を引き取ったことをお知らせいたします」と綴られ、死因に付いては明らかにされていない。

フォアマン氏は1949年1月10日生まれ。米・テキサス州マーシャル出身。1968年、ボクシングを始めてから2年足らずでメキシコ五輪ヘビー級金メダルを獲得。1973年1月にはジョー・フレイジャー(米)を2回TKOで破り、世界ヘビー級王座を獲得。無敵と言われたが、1974年10月、モハメド・アリ(米)にまさかの8回逆転KO負けを喫し世界王座から転落。その後、一度は引退したがカムバック。1994年11月にマイケル・モーラー(米)を10回KOに破り、約20年ぶりに45歳9ヶ月で世界王座返り咲きを果たし、世界中を驚かせた。

職業学校でボクシングを始めたばかりのフォアマンは、オリンピックで金メダルを取りたいと思い、1968年のはじめ、カリフォルニア州オークランドのジムに名トレーナー、ディック・サドラーを訪ねる。サドラーはヘビー級ソニー・リストン、ライトヘビー級アーチー・ムーア、スーパーウェルター級フレディ・リトルらの世界王者を手がけ、1963年4月には、後のカリフォルニア州認定世界ウェルター級王者チャーリー・シャイプス(米)を引きつれ来日。

日本の一線級にことごとくKOで勝利を収めると、それが1961年にリキ・ジムを創設していたプロレスの力道山の目に留まり、重量級の強い日本人選手を育成するためにサドラーはリキ・ジムのトレーナーに就任。しかし、1963年12月に力道山が急死。サドラーの日本でのトレーナー生活は1年あまりで終わり、米国へ戻った。

フォアマンは真剣だった。10月に開催されるメキシコ五輪出場を目指し、短期間の特訓が始まった。サドラーの指導法は、体でやって見せ、「納得いったならば、信じてついて来い」というスタイルで、フォアマンは上手く暗示にかけられ、並み居る強豪を蹴散らし、見事に米国代表の座を獲得する。

「腕力、体力とも相当だったが、当時の彼は両手をブンブン振り回すだけのシロモノさ。技術なんてお世辞にもなかった」(サドラー)

オリンピックでは、キャリア不足を心配されたフォアマンだったが、見事にヘビー級で金メダルを獲得。米国ボクシング界に唯一の金メダルをもたらした。通算アマ戦績21勝(14KO)5敗。

フォアマンは多くの好オファーを断りサドラーとのコンビで、19699年6月にプロデビューを果たすと、1973年1月にジャマイカで史上最強といわれた世界ヘビー級王者ジョー・フレージャー(米)に挑戦。不利の予想を覆し王者を一方的に打ちのめしたフォアマンは、2回TKO勝ちで王座奪取に成功。この試合はキングストンの惨劇と呼ばれた。

38戦全勝(35KO)史上最高のKO率を持つチャンピオンとなったフォアマンは初防衛戦で来日。1973年9月1日、東京・日本武道館で、ジョー・キング・ローマン(プエルトリコ)の挑戦を僅か120秒で撃退。噂にたがわぬ、すさまじいまでの強さを日本のファンに見せつけた。

「パンチは何にも覚えていない。頭に一発ガツーンと来たら、それで終わったのさ」(ローマン)

1974年3月にはアリの顎を割った男、ケン・ノートン(米)の挑戦を受け、これも2回TKOで破り、あっさりと2度目の防衛に成功。そして迎えたのが、1974年10月30日(日本時間31日)にザイール(コンゴ)の首都キンシャサで行われた、モハメド・アリ(米)とのタイトルマッチ。

アリも「これが最後か」とまで言われ、挑戦は無謀との声もあったほど、フォアマンの優位は動かないとみられていたが、フォアマンはアリのロープ・ア・ドープのまえに疲労困憊。まさかの8回KO負けで王座から陥落。そして、長年連れ添って来たサドラーとのコンビも解消された。

その後は28歳で一度現役を引退。キリスト教の伝道師となったが、38歳で10年振りに現役復帰。1994年に45歳9ヶ月でWBA、IBF王者のマイケル・モーラー(米)に挑戦し、第10ラウンド大逆転のKO勝ちを収め世界王座復帰。アリ戦の敗北から実に20年の時間が流れていた。

「何歳になっても自分の夢を諦めてはダメだ!」(フォアマン)

1996年11月には再び来日し、東京ベイNKホールでJBC非公認の興行に出場。マイナー団体WBU、IBA公認のタイトル戦を行っている。プロ通算76勝(68KO)5敗。

まさに激動の人生を生きたフォアマン。ご冥福をお祈りいたします。