1973年9月8日(日本時間9日)、パナマシティ・ヌエボ・パナマ・ジム。東洋ライト級チャンピオンでWBA世界ライト級8位にランクされていた鈴木・”ガッツ”・石松(ヨネクラ)=25勝(13KO)10敗5分=選手は、WBA世界同級王者ロベルト・デュラン(パナマ)=38勝(30KO)1敗=の持つ世界王座に挑戦。
世界挑戦が内定していた門田新一(三迫)選手から東洋王座を強奪し、2度の防衛に成功。世界タイトル挑戦のチャンスを掴んだ石松選手は、「パナマに骨を埋める覚悟で戦う」と言い、お馴染みの股旅スタイルでリングに登場。日本リング同様に三度笠を客席へ向け放り投げる。パナマでの2度目の世界挑戦試合となる石松選手を、超満員1万6千人の観衆もヤンヤの喝采で迎え入れた。
しかし、「鈴木の期待もここまで」と、試合後は厳しく論評されるほどデュランは強く、「8回くらいでこりゃダメだと思った」石松選手は、その後は10回までは頑張ろうと心に決め、予定通り10回2分10秒デュランの強打の前にKO負け。解説の元世界フライ級王者海老原博幸氏が、「一流と二流の差を感じましたよ」と言うほどの完敗で、「なんて不甲斐ない。俺は世界の石松になれないのか」と男泣き。

1969年2月、全日本ライト級新人王を獲得した石松選手の為に、故郷栃木県上都賀郡粟野町の地元有力者達は、鈴木石松後援会を結成。石松選手は米倉健司会長と共に発足式に出席した。一合の醤油さえ貸してくれなかった近所の人々が、「有ちゃん(本名・鈴木有二)、おめでとう」と寄ってくる。親戚のシの字も付き合いがなかった者が、「有ちゃんと僕はよく一緒に遊んだものです」と誇らしげに語っている。
これを目にした米倉会長は、「現役時代には、いろいろな感激を味わった。しかし、今日ほど感激したことはない。これこそ一生忘れられない感激だ」と涙。帰り道。雨の国道、ハンドルを握る石松選手も、「こんなものかな。こんなものかな」と、涙があふれ止らなかったという。
「こうも違うものなのか。世間とはこんなものなのか」
「もっと強くなって、有名になって、ゼニを稼いで、みんなを見返してやる。なにくそ!」
初めての10回戦は宇都宮の栃木県立体育館。後援会はバス8台を連ね約600人が応援に駆けつけた。気分屋の石松選手は大いに気をよくし、上位ランカー伊達健七郎(新日本木村)選手を破り故郷に錦を飾った。
そして、1970年1月、世界王者イスマエル・ラグナ(パナマ)への挑戦が内定していた東洋ライト級王者ジャガー柿沢(中村)選手とのノンタイトル戦のチャンスを掴む。世界前哨戦で固くなった柿沢選手に対し、「ジャブが当たる」と気をよくした石松選手は、「前半ポイントを稼ぐだけ稼いでやれ」とペースをあげ、終盤追い上げる柿沢選手の攻勢を交わし切り判定勝ち。
世界6位にランクされていた柿沢選手を破った石松選手は、10回戦3度の経験しかないキャリアで世界王座への挑戦が決まるが、「あんまり早すぎて危険」と心配の声があがる。それでも、「はっきり言って勝てるとは思わない。しかし、相手も人間。命までは取られない。納得のいく試合をする」と決意を固め、米倉会長も、「最初はものになるかと心配したが、とにかく努力でこの地位を築いた選手です」と後押しした。
1970年6月、パナマシティでパナマの英雄ラグナの持つ世界王座に挑んだ一戦は、13回まで王者に追いすがる善戦を見せたが力尽きTKO負け。試合後は「最初から外国へ行けることだけが嬉しくて、勝とうだなんて全然考えていなかった」と正直だった。

再起戦に勝利した石松選手は10月になり10日にオーストラリアへ遠征。ライオネル・ローズ(オーストラリア)に判定負け。そして29日(日本時間30日)には、ハワイ・ホノルルのリングに上がりレネ・バリエントス(フィリピン)に僅差の判定負け。元世界王者二人を相手に貴重なキャリアを積んだ石松選手であったが、「外国へ行けるのが、ただうれしくて」と振り返っている。
連敗後の1971年3月には高山将孝(P堀口)選手の持つ日本王座に挑むも三者三様の引き分け。同年8月に行われた東洋王者門田選手との第1戦は判定負け。12月4日、韓国へ遠征した石松選手は、一階級上の無敗の東洋王者 李昌吉(韓国)に判定負け。
ゆっくり正月を迎えていたが、1972年1月16日に東洋王者門田選手への挑戦が決まっていた東洋5位サナンパ・パヤクソポン(タイ)が来日不能となり挑戦をキャンセル。試合6日前に石松選手の代打挑戦が決まる。
「今度がノンタイトルなら受けていなかったです。東洋タイトルがかかっていてチャンスだし、それに、負けてもともとですからね」
スパーリングは、「かえって疲れるから」とやらずに、試合まで6.5キロの減量のみに専念。無事、計量をパスした代打挑戦者は、「倒されなきゃいいけど」とヨネクラジムの同僚、東海林博選手が心配する中、ラウンドが過ぎて行く。世界を意識して固くなったのか、5ヶ月前に勝っている油断なのか門田選手の調子はいまひとつ上がらない。逆に「負けてもともと」の石松選手は、「リングに上がったら、不思議に張り切っちゃった」と、終盤心配されたスタミナも落ちず、あれよというまに12回判定勝ち。
最終ラウンド終了ゴングがなると、観客席からは大きなどよめきがあがった。「まさか、あの門田が負けるとは。やってみないと、わからないもんだねェ」。門田選手との初戦でKO負けの石松選手は、ひと月前の韓国遠征でも星を落とし2連敗中であり、その言葉は最もであった。勝った石松選手は米倉会長と抱き合って男泣き。しかし、「これからは東洋をどんどん防衛して、金を稼がなきゃ」と現実的でもあった。

「男の意地を持っていますよ」と石松選手を表現していた米倉会長は、愛弟子への夢を諦めずデュランに敗れた直後の再起戦でWBC世界ライト級王者ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)への挑戦をまとめた。試合は1974年1月17日、東京開催と決まった。デュランにKOで敗れて僅か4ヶ月後である。
トレーナーにはエディ・タウンゼント氏が迎えられた。「ボディで倒れるボクサー、とてもハズカシい。石松、ボディ打たれてジーッとガマンしてちゃダメね。ミミズだってからだ半分ちぎれても”コンチクショー”って暴れるでしょ」。
タウンゼント氏の言葉にも現れているように、「もっとガッツのあるところ見せて」と周囲の人々が願いをかけて、リングネームは”ガッツ石松”と変えられた。だが、石松選手は「勝ったら元の鈴木石松に戻します」と遠慮がちであった。
「今度こそはチャンスをモノにする」と気分屋の石松選手は、3度目にして初めて迎える日本での世界挑戦に燃えたが、試合は9日前になってゴンザレスが毒蜘蛛に刺されたという理由で延期される。「せっかくやる気になっていたのに。チケット代は使っちまったし、あの野郎!」。
宵越しの金は持たない主義の石松選手は、既に前売りチケットを30万円ほど売っており、「俺は一体どうすりゃいいんだ!」と、チケットの払い戻しに震えたが、試合は4月11日、東京・日大講堂での開催が決定。2月28日行われたアルレドンドvs柴田のアンダーカードで前哨戦を挟む事になり、ジニー・クルス(フィリピン)を4回でKO。
「こうなったらあのヤロー、絶対にぶっとばしてやる!」と石松選手は燃えたが、試合の予想は「石松兄ィの悔いなき善戦を期待する」と超悲観的。しかし、3度目の正直となったゴンサレス戦は、「幻の右」が見事に炸裂。8回2分12秒KO勝ちで世界王座を獲得。その試合ぶりは、海老原氏がデュラン戦で石松選手が勝つにはと語っていた、「フットワークを使って距離を取り、右のカウンター」というスタイルそのものだった。