6月19日に東京・大田区総合体育館で開催された、WBO世界ウェルター級タイトルマッチで王者ブライアン・ノーマンJr(米)=28勝(22KO)無敗2NC=の強打の前に、5回46秒失神KO負けを喫した佐々木 尽 (八王子中屋)=19勝(17KO)2敗1分=選手が再起宣言。
1989年12月10日に東京・後楽園ホールで、尾崎富士雄(帝拳)選手が指名挑戦者として、WBA王者マーク・ブリーランド(米)に挑戦し、4回TKO負けを喫して以来、実に約35年6ヶ月ぶりに日本で開催された世界ウェルター級タイトルマッチ。

「人生を懸けた挑戦。勝って歴史を変える」と勇躍勇んで、日本人選手まだ獲得した事がない、前人未到の世界ウェルター級王座奪取を誓った佐々木選手だったが、試合開始直後、王者の放った左フックでダウン。再開後にもダウンを追加される。
ここから立て直し逆転を狙ったが、第5ラウンド、ノーマンJrの狙いすましの左フックを喰った佐々木選手は大の字にダウン。そのままピクリとも動かず、5回46秒KO負け。失神した佐々木選手は担架に乗せられ退場。救急車で病院に直行。そのダメージは一時的に記憶を失うほどのものだった。
ダメージが心配された佐々木選手だが、一夜明け記憶は戻り、「ウエルター級の世界の強さを感じた。ノーマンはむちゃくちゃ強かった」と、完敗を受け入れた上で再起を宣言。
「自信は失っていない。スピード、パワーは通用すると思った。最終的に技術の差を感じた。でも、これから技術を覚えていく事をやって行けば、全然、勝てるなと、体感で感じた。ものすごく深い学びになった」 と、どん底から這い上がる決意を表明。
1969年10月30日、後楽園ホール。メインイベントで組まれたのは、デビュー以来12戦全勝(11KO)の日本スーパーウェルター級王者輪島功一(三迫)選手と、時のWBC世界スーパーライト級王者ペドロ・アディグ(フィリピン)のノンタイトル戦。
「プロになるつもりはないんです。ただ体を動かせれば」と、25歳の誕生日を2ヶ月後に控えた青年は三迫ジのム門を叩く。運動するのが目的だったが、ジムに通うに連れささやかな夢が芽生えた。「一度でいいから試合がしたい」と、思いつめた心の内を思い切って三迫仁志会長に打ち明けると、意外にもあっさりと「それならライセンス取って来いよ」との返事をもらった。

「ダンナ試合決ったよ」と告げられた1968年6月のデビュー戦は、1ラウンドKO勝ち。2週間後の2戦目にも2回KO勝利を収めると、あれよという間に連勝を重ね、全日本ウェルター級新人王を獲得。このクラスには同門の 龍 反町(野口)選手が日本王者に君臨していた為、スーパーウェルター級で日本タイトル挑戦の機会を得る。
1969年9月4日、名古屋へ遠征した輪島選手は日本スーパーウェルター級王者吉村則保(中日)選手を4回KOで破り日本タイトルを獲得。一躍、遅れてやってきたホープとなった輪島選手に三迫会長も夢を見始めた。
1968年7月2日、日本武道館。東京オリンピックの金メダリストで三迫ジムからプロ入り、22連勝(4KO)を飾っていた桜井孝雄選手が、世界バンタム級王者ライオネル・ローズ(オーストラリア)に挑んだ試合では、桜井選手が第2ラウンドに先制のダウンを奪ったが、ポイントリードと判断した陣営は逃げ切り策をはかり逆転の判定負け。

呆然とリングに立ち尽くした三迫会長は、「桜井が負けたんじゃない。俺が負けたんだ」と愛弟子をかばった。だが、ここから三迫会長の世界王者育成の炎は燃えて行く。そして、輪島vsアディグが実現した。
アディグは1968年12月、フィリピン・ケソンで行われたWBC世界スーパーウェルター級王座決定戦で、”黒い恐怖”・アドルフ・プリット(米)に15回判定勝ちを収め王座を獲得。しかし、2月にハワイ・ホノルルで行われた再戦は、ノンタイトル戦ながらプリットが5回TKO勝ち。以来、8ヶ月アディグはリングから遠ざかっていた。
輪島選手が勝てば、次は世界タイトルを賭けて戦う約束もある。「もしかしたら輪島の強打が」との期待に後楽園ホールは満員の観衆で埋まった。、
しかし、試合は実にアッケなく終わった。輪島選手はアディグの放った右フック一発で失神。初回2分21秒KO負け。リング上でピクリとも動かない敗者は、担架で運ばれ救急車で慈恵医大病院に直行。

「無理だと思ったよ」
「世界を甘く見るな!」
痛烈な見出しで、批判されたこの試合。キャリア不足、背伸びし過ぎ、好素材もダメに・・・。輪島選手の再起は難しいだろうとまで断言された。
しかし、当の輪島選手は「マグレ当たりを喰ってしまった。喰った自分が悪い」と猛省。それはなぜか。心にスキがあったから。いつになく練習も積んだ、体の調子もいい。つい図に乗ってしまった。この戦いで心の重要性を学んだと、輪島選手は語っている。
佐々木vsノーマンJr。試合後、佐々木陣営の中屋一生会長は、「ノーマンの実力を僕も父親(廣隆トレーナー)も見誤っていた。我々が考えていた以上にノーマンは成長していた。試合後にノーマンが語った自分自身のことに集中していたという、あの言葉が全てなんです」と敗因を分析。
中屋廣隆トレーナーは、「大きな基礎を作り直したい」と、新たな挑戦に向けた課題を口にした。輪島選手は、失神KO負けから世界王者へと駆け上がった。そして、多くのファンの心を掴む選手になった。佐々木選手と中屋廣隆トレーナーの夢が、現実になる事を期待して待ちたいと思います。