九州の熊本ジムに所属する高口裕司選手は、2歳の時に小児麻痺にかかり、下半身、特に右足の発達が正常ではなく、右足は左足より三回りも細い。右足を引きずっての小、中、高校生時代は、「みじめな思い」の連続で過ごしたという。
「健康な人と同じことをやってみたい。それも、むずかしい事の方がやりがいがある」
高校を卒業し一念発起した高口選手は熊本ジムに通い出す。右足が不自由な練習生は、最初100メートルの距離を走ることもままならなかった。ロープスキッピングや階段上りで足腰を鍛え、かなり走れるようになるまで2年間もかかった。
ようやく実戦練習を積めるようになり、プロテストに合格。1975年3月、念願のプロデビューを果たすが、現実は甘くはない。たちまち3連敗を記録し、周囲からは当然のように「そのへんでもうやめておけ」と忠告された。「普通の人なら、あれでやめているでしょう」(高口選手)という場面だが、ここでも高口選手は持ち前の負けん気を発揮。
次の2試合を引き分けに持ち込むと、5連勝を記録する。しかし、10回戦に上がったとたんにまたもや連敗。1977年3月5日、熊本市体育館で日本スーパーウェルター級王者柴田賢治(堀内➟斎田)選手に、肥後三四郎(熊本)選手が挑むタイトル戦をメインとする興行が行われ、高口選手はセミファイナルに出場。日本フェザー級4位ジャガー関野(草加・有沢)選手と対戦する。
高口選手は初回、スリップ気味ながらダウンを奪われるが、2回、左右フックで関野選手に迫りダウンを奪い返す。猛烈な打ち合いとなったが、6回から疲れが見えた高口選手は劣勢に立たされる。それでも、迎えた最終ラウンド、左右フックで猛反撃。あと一歩で逆転KOかと思わせる追い上げを見せたが、無念の判定負け。これで3連敗。顔を腫らして帰って来た息子に、母は「もう、やめてくれ」と泣いた。

しかし、この試合を観た斎田ジムの斎田直彦会長は、右足が不自由な高口選手の奮闘ぶりに心を動かされる。18歳の時に愛知県常滑市の母校である中学校の校長と直談判し、講堂を借り受け、丸太でリングを組み上げ、チケットを売り歩き、自らの手で興行を成し遂げたという斎田会長は、指導は厳しいが、それでいて情に篤く、涙もろい。選手を大事にするボクシング人だった。
「東京でチャンスを作ってやろう」
言った事は絶対に曲げない斎田会長は、すぐにそれを実現に移す。5月5日、東京・後楽園ホール。高口選手と日本フェザー級6位にランクされていた後村則和(ひばりヶ丘)=10勝(5KO)6敗1分=選手との10回戦が、メインイベントで組まれた。
初回、高口選手は開始早々いきなり後村選手に打ち込まれピンチを迎えたが、あふれる闘志で盛り返す。そして6回には得意の右フックでダウンを奪う。だが、強打の後村選手も一歩も譲らず、激しい打撃戦となる。9回、押されると倒れやすい高口選手はスリップダウン。消耗が激しく「このまま試合を投げようか」という思いが、一瞬頭をよぎる。しかし、立ち上がった高口選手は10回を戦い抜く。そして、「勝者、高口」のコール。内田正一主審は、高口選手の手をあげた。

後楽園ホールのボクシングファンは感動の涙を禁じえなかった。素晴らしいファイトを見せてくれた勝者は、「ボクシングのメッカ、後楽園ホールで試合をやるのが夢でした。それが実現したうえ勝ったのだから、こんなうれしい事はありません」と、胸を詰まらせた。
「あの努力には本当に頭がさがります」(熊本ジム・明地会長)
そして仕掛け人の斎田会長は、「あの姿を見たら、五体満足で怠けてる奴も反省するだろう。僕の役目も終わったよ」と、口は悪いが、いかにも斎田会長らしい物言いで高口選手を称えた。
5月26日、JBC発表の日本ランキングで高口選手は、日本フェザー級6位にランクイン。王者はフリッパー上原(協栄)、1位スパイダー根本(草加・有沢)、2位足立茂義(本多)、3位吉田秀三(横浜・協栄)、4位ジャガー関野(草加・有沢)、5位友成光(東洋)。地方ジムの選手が日本ランク入りするのは至難の時代でした。