1970年12月3日、日大講堂。世界フェザー級チャンピオン西城正三(協栄)選手と、世界スーパーフェザー級王者の小林 弘 (SB中村)選手が、ノンタイトル10回戦で対戦。日本人の現役世界王者同士がグローブを交えたこの一戦は、空前の人気を呼んだ。
1965年5月18日に愛知県体育館で超満員1万2千人の観衆を集めて行われた、世界バンタム級タイトルマッチ。ファイティング原田(笹崎)選手が、不敗、無敵の”黄金のバンタム”エデル・ジョフレが持つ世界バンタム級王座に挑戦した試合は、原田選手が判定勝ちで大殊勲の王座奪取を成し遂げ、TV視聴率は65%を記録。
しかし、昭和45年は西城、小林両選手の他に大場政夫(帝拳)選手、沼田義明(極東)選手と4人の世界王者がいたが、プロボクシング界はテレビ放映権料に頼る余りに安易なマッチメイクに走りファンにそっぽを向かれ、人気も落ち目。

「今の選手には個性がないからドラマが無い。古くはピストン堀口、槍の笹崎。その後はカミソリパンチの海老原、ラッシュの原田、天才強打者青木、ハンマーパンチの藤猛。皆、看板通りに試合を進めて行く。ファンはついて行きますよ」
「今のボクサーはレベルが世界の一流どころと接近してきたせいか、似た感じ。冒険しないところも共通事項、偶像に近い強烈なイメージを持つ世界王者がいない」(評論家・郡司信夫氏)
「ともかくファンあってのボクシングだと言うことを忘れてはならない。そこから出発すれば全てが解決する。一番悪いのは権利だけを主張し、義務をはたさない事だ」との、厳しい意見が飛び交っていた。
小林選手はタイトル防衛5度の記録保持者(当時)で、西城選手も4度の防衛に成功し人気絶頂。両選手共に日本テレビと契約を締結していた事も幸いしたが、業界のリーダー格であるSB中村ジム・中村信一会長と、若手バリバリであった協栄ジム・金平正紀会長の両会長の英断により西城vs小林は実現された。
「もしこの試合でお客さんが入らなかったら、それこそボクシング界は終わりだよ」という使命を背負って行われた、世界王者同士の”世紀の対決”は、チケット売り出しと同時に8千円のリングサイド席から売り切れ、当日は4階、3階の大衆席から空席が消え、入場者数1万2千人で満員札止め。

ノンタイトルで日大講堂に1万人を越える観衆を集めたのは、昭和30年(1955年)に行われた東洋無敵のフェザー級王者金子繁治(笹崎)選手と、”魚河岸のチャンピオン”・東洋ライト級王者沢田二郎(新和)選手による、東洋王者同士の対決以来。
興行収入は入場料収入2千5百万円。TV、ラジオの放送料等を入れると4000万円。TV、ラジオのゲスト解説には、プロ野球の長嶋茂雄選手と、石原慎太郎氏が座った。
試合は期待にそぐわぬ大熱戦となったが、小林選手が先輩王者の意地を見せ、老獪な試合運びでスプリット判定勝ち。だが、ジャッジ泣かせの試合で、レフェリー、ジャッジ3者のスコアが揃ったのは8、10回の5-5だけ。
両王者のファイトマネーは、小林選手2万ドル(720万円)。西城選手には2万ドルにプラス・アルファがあったとされている。1970年の大卒初任給は、3万9900円、プロレス&ボクシング誌の定価は250円。
世界王者対決に敗れた西城選手であるが、その人気は一向に衰えず、アントオ・ゴメス(ベネズエラ)との6度目の防衛戦では10万ドル(3600万円)という、日本人選手として過去最高のファイトマネーを得ている。
