1970年12月11日(日本時間12日)、メキシコ・ティファナでWBC世界フェザー級4位柴田国明(ヨネクラ)選手は王者ビセンテ・サルディバル(メキシコ)へ挑戦のチャンスを掴む。21歳で世界王座を獲得したサルディバルは1967年6月、ハワード・ウィンストン(英)を破り7度目の防衛に成功した後、引退を表明。しかし、1969年7月に再びリングに戻ると、1970年5月、ジョニー・ファメション(オーストラリア)を15回判定で破り王座カムバックを果たし初防衛戦。
ハーバート康(韓国)に痛烈な6回KO負けを喫して以来、8勝(5KO)1分と好調の柴田選手だったが、ひどい腰痛に悩まされ、大きな不安を抱えての世界初挑戦だったが、柴田選手はけれんみのないファイトで、サウスポーの名王者サルディバルを12回終了棄権に追い込み世界王座奪取に成功。
サルディバルの王座に挑戦する際、柴田選手は初防衛戦のオプションを握られていた。メキシコのエンリケ・セセニア・プロモーターは、タイトルをメキシコに奪回する為に1971年4月25日(日本時間26日)にメキシコ・モンテレイで地元の同級7位クレメンテ・サンチェス(メキシコ)を柴田選手に挑戦させると発表。サルディバル挑戦の契約には、オプション契約に違反した場合、違約金10万ドル(3600万円)を支払う事が明記されていた。

しかし、米倉会長は何としても柴田選手の初防衛戦は日本で行いたい。盟友の協栄ジム・金平正紀会長にも仲裁を頼んだが、セセニア氏はメキシコ開催を譲らない。米倉会長は5万5千ドル(1980万円)で興行権買取案を提示したがこれもダメで、ついに日本開催を強行する事を決める。
ハスティアノ・モンタノJr(フィリピン)WBC会長の了解を取り付け、JBCのバックアップを得ると、4月末、6月3日に東京都体育館で5位ラウル・クルス(メキシコ)=21勝(13KO)5敗1分=と初防衛戦を行う事を発表。放映はフジテレビで、柴田選手のファイトマネーは4万ドル(1440万円)。
紆余曲折を経て行われたクルスとのV1戦は、柴田選手が初回3分4秒鮮やかなKO勝ち。米倉会長は、ホッと胸をなでおろしたが、喜びもつかの間。モンタノJr会長は、このオプション無視の興行を容認した事により会長の座を追われた。そして、1971年6月、新しくWBC会長となったラモン・ベラスケス(メキシコ)は、柴田陣営に王座剥奪をちらつかせ、オプション契約の履行を迫った。

柴田選手と専属契約を結ぶフジテレビは、海外で王座を獲得した新スター柴田選手の防衛戦の日本開催にこだわり、10万ドル(3600万円)をセセニア氏に支払いオプション契約を買い取った。対戦相手は自由選択が認められ、選ばれた挑戦者はエルネスト・マルセル(パナマ)。試合は1976年11月11日に愛媛県松山市の愛媛県ラグビー場で開催される事が決まった。
しかし、10万ドルを支払ってまで選んだマルセルは強かった。独特のリズムを持ったフットワークを活かした、変幻自在な動きから放たれる左リードは鋭く柴田選手に突き刺さり、柴田選手は動くマルセルを捕まえられず、右目を大きく腫れあがらせる大苦戦となり試合終了。
かなか出ない判定結果。放映したフジテレビは「マルセル王座奪取!」とテロップを流し、新王者誕生を告げ放送終了となったが、結果は引き分け。韓国のチョン・ヨンス主審は72-69で柴田選手としたが、二人の日本人ジャッジは71-71と、71-65でマルセル。柴田選手はかろうじて2度目の防衛に成功した。
マルセルは1972年8月、西城正三(協栄)選手からWBA世界フェザー級王座を奪っていた、アントニオ・ゴメス(ベネズエラ)を攻略し世界王座を獲得。スパイダー根本(草加有沢)選手を9回KOに破った試合を含め4度の防衛に成功。ラストファイトでは、後の名王者アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)に判定勝ちしているが、母の希望に従い王者のまま引退。自分の息子にクニアキ・シバタの名前を付けている。

何とか王座を護ってホッと一息の柴田陣営だったが、米倉会長と地元のプロモーター大元氏がフジテレビとトラブルに陥った事により、フジテレビは柴田選手との契約を解除。世界チャンピオンがテレビ局から契約を切られるという前代未聞の事態が発生する。
米倉会長は日本テレビ、東京12チャンネルへ足を運んだが、フジテレビと問題を起こした後では受け入れてもらえない。そんな中、『チャンピオンになってから1年以内にトップ・コンテンダーと防衛戦をしなければならない。1ヶ月以内に契約しなければタイトルを剥奪する』というWBCからの至急電報が届く。
「違約金も払ったし、制約されるものは何もないはずだ」は通用しない。WBCはランキング2位となっていたクレメンテ・サンチェス(メキシコ)との対戦を迫った。何としてもテレビ局を確保しなければならない米倉会長は、ようやくボクシング中継から撤退して久しいNETテレビに話を持ち掛け、サンチェス戦のテレビ中継は確保した。
試合は1972年5月19日、東京・日大講堂での開催が決る。プロモートするのは仙台で建築業を営む千葉隆(後、仙台ジム会長)氏で、「放映権料として6万5千ドル(2340万円)貰いました。でも、NETさんがやってくれるのは、自分が興行するからで、米倉君が話を持って行って断られたそうだよ」と明かしている。この時代、千葉氏は輪島功一(三迫)選手の世界戦興行も請け負っている。
柴田陣営が3600万円を支払う元凶となったサンチェスは、37勝(24KO)6敗2分の戦歴をひっさげて来日。トレーナーは元マチュア選手の父オラシオ・サンチェス。1963年3月のデビューから68年2月の19戦目までKO勝ちは一度もなかったが、足を使うアウトボクシングからファイターへとスタイルを変えた途端にKOを量産。柴田戦を前に一つの引き分けを挟み14連続KOを続けていた。
強敵を迎え、「これまでとは人間が変わった。やる気が違う」と周囲を驚かせた柴田選手は、「打ち合ってくれたら、絶対に倒す自信があります」と、試合前から珍しくKO宣言。いつものようにリズミカルな動きから得意の左フックを打ち込む機会を狙ったが、第3ラウンド、サンチェスの目が覚めるようなワン・ツー・ストレートを喰らった柴田選手はダウン。一度は立ち上がるが、足がもつれ再び倒れ込むと、リングに大の字となり万時休す。虎の子の王座を失った。

新王者サンチェスは、「運がよかった。正直、試合が終わった時まで、世界チャンピオンになれるとは思わなかった。シバタがサルディバルに勝った強いボクサーだけに緊張していました」と胸の内を明かし、「チャンピオンの座を失ったらボクシングはすぐ辞めます」と続けた。
これは強いと感じさせたサンチェスの王座は、しばらく安泰かと思われたが、帰国後地元ファンの大歓迎を受けた王者はすっかり有頂天。金も入り、とたんに練習に身が入らなくなったが、「俺に勝てるやつはいない」の自信は揺らがない。
しかし、1972年8月12日(日本時間13日)に地元モンテレイで行われた王座獲得第一戦でサンチェスは、2ヶ月前にWBA王者ゴメスに判定で敗れていたエンリケ・ガルシア(メキシコ)に10回判定負け。そして、12月16日(日本時間17日)にモンテレイで行われた初防衛戦では、フェザー級リミットを作れず開始ゴングを待たずに王座は剥奪。試合ではホセ・レグラ(キューバ→スペイン)に13度のダウンを奪われ10回KO負け。
圧倒的KOで世界王者となったサンチェスは、僅か7ヶ月で王座転落。その後、2年半のブランクを経て再起し6連勝(3KO)を飾るが、1975年8月24日(日本時間25日)にモンテレイで、アルバロ・ロハス(コスタリカ)に10回判定負け。これがラストファイトとなった。
サンチェスに勝ったロハスは、WBC世界ライト級王者ガッツ石松(ヨネクラ)選手の挑戦者に選ばれ、その年12月4日に日大講堂で石松選手に挑むも14回KO負け。石松選手の右アッパーが、米倉会長とサンチェスの因縁にケリをつけた。そして、サンチェスは1978年12月、射殺されるという非業の死を迎える。まだ31歳という若さだった。