1972年10月15日夜、池袋に住んでいた東洋ライト級チャンピオン鈴木石松(ヨネクラ)=ガッツ石松=選手は、「弟が危ない」の電話を受け、12人の酔漢とトラブルに陥っていた、元プロボクサーの実弟秀夫氏と友人を助ける為に、直ちに現場へ直行。最初は手を出さずに防戦に務めていたが、結局、8発のパンチで8人をKO。

『石松8人をKO。路上でケンカの助っ人』

『三度笠チャンピオン、路上で8人KO』

『石松、8人のダンプ運転手全員を約15分でノックアウト!』

スポーツ新聞各紙はハデな見出しでトップを飾り、TV、ラジオでも大きく取り上げられる大事件となった。事件は秀夫氏が運転する車の前を酔漢らがふさいだ事に対し、秀夫氏が注意を促したところ、口論となり酔漢仲間が集団で襲って来たことから始まった。

アパートから5分で乱闘現場に到着した石松選手は、助っ人ではなくケンカを止めに入った。しかし、人数に物をいわせ石松選手にも迫る酔漢達。中には入れ墨が入った者もいる。それでも手を出さずに酔漢たちの攻撃を交わしていると、自転車に乗った警察官が到着。

やめろ、やめろ!警察だ!

制服姿の警察官が現れたのにも関わらず、酔漢たちの勢いは止まらず、仲裁に入る巡査にも向かってくる。制服は破れ、受令器は飛ばされ、制帽は放られた。乱闘を抑えられないと思った若い巡査は、「これじゃあだめだ、やっちゃえ」と石松選手に声をかけるが、石松選手が東洋チャンピオンだとは知らなかった。

巡査の指示を受けた石松選手は動いて相手を引き付け、追いかけてきた相手を1人ずつ、1発のパンチで倒した。結局4人は逃げ、8発のパンチで8人を倒した所で、援軍のパトカーが到着。石松選手は無傷だったが、酔漢たちの中には顔面に縫うほどの傷を負うものが多数。そして、現場にいた全員が「相互暴行」の現行犯として逮捕された。

Guts Ishimatsu

石松選手は1970年6月にヨネクラジム初の世界挑戦者としてイスマエル・ラグナ(パナマ)の持つ世界ライト級王座へ挑戦。1972年1月16日に門田新一(三迫)選手が持っていた東洋ライト級王座へピンチヒッターとして挑戦し、大番狂わせの判定勝ちで王座を奪取。世界ランキングに名を連ね、5月には初防衛にも成功していた。

事件を聞いた米倉会長は、「なんてことしてくれたんだ」の想いで警察に向ったが、事情を聞いて少しホッとする。数日間は留置所へ泊ることになったものの、正当防衛。検察側からも情状酌量の余地ありとして、身柄送検にはならなかった。

晴れて無罪放免とななった石松選手は、「くさい飯には手を出さなかったよ」と、プライドを覗かせた。10月20日、JBCは、「チャンピオンとして慎重さを欠く点あり」としながらも、実状を認め”厳重戒告処分”とした。また、警察での事情聴取で石松選手は、「チャンピオンは、いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければならないと賞状に書いてある」と主張したという事だったが、こちらもお咎めはなかった。