1986年7月24日、東京・両国国技館。昨年オープンしたこの会場で初めて行われたボクシング興行のメインイベントは、浜田剛史(帝拳)選手がWBC世界スーパーライト級王者レネ・アルレドンド(メキシコ)に挑んだタイトル戦。左拳の度重なる骨折、手術による2年のブランクを乗り越え日本、OPBFのベルトを奪っての世界初挑戦となる浜田選手は、日本のボクシングファンの期待を一身に背負っての戦い。

この日、私はアルレドンドの控室にいた。この当時、協栄ジムはレネのマネジャーであるガヤルド氏と距離が近く。セミファイナルで日本スーパーウェルター級王者カーロス・エリオット(八戸帝拳)選手と戦う、アントニー・ストッキー(米)のセコンドを大竹重幸・協栄ジム・マネジャーが手伝う事になっていた。

しかし、試合開始時間が迫るのに世界チャンピオン陣営は一向にやってこない。どうなってるのと心配された中、ようやく控室に入ったレネ陣営は、まず、ストッキーのバンテージを巻くが時間がなく、ガヤルド氏と大竹氏が、左右の拳を分担して巻きあげた。

Carlos Elliott vs.  Antonio Stocky

アップもなにもあったものではない。すぐにグロービングしてリングへ向かう。この後、レネのバンテージを巻かなくてはいけないガヤルド氏は、セコンドに付く時間がなくなり、急遽、大竹氏がストッキーのチーフセコンドに付く事になる。あっさり初回KO負けしたストッキーは、後日この日がデビュー戦だった事が判明している。

いよいよメインイベント。1986年は3月に渡辺二郎(大阪帝拳)選手が世界王座を追われ、6月に喜友名朝博(協栄)選手が韓国での挑戦に敗れ、世界王者不在となっていた。

「浜田が勝てなかったら、当分日本人の世界王者は生まれない」

「浜田に勝ってもらいたい。いや、勝ってほしい。そうしないと日本のボクシング界が困ってしまう」

Tsuyoshi Hamada vs.

しかし、25歳のレネ・アルレドンドは35勝(33KO)2敗と破格のKO率を誇る、身長180センチのパンチャー。ここ1年の間に不敗の世界ランカー二人をKOしている実力者。相手の実力を認めていた浜田選手は12回戦う事を考えない短期決戦に出る。

手作り、生え抜きの選手育成に誇りを持っていた”老舗”帝拳ジムが、アマチュアから選手をスカウトしたのは、1977年の瀬川幸雄(自衛隊体育学校)選手が最初。これは本田明彦会長の判断で、瀬川選手とリカルド・カルドナの世界戦を自らまとめ上げたが、瀬川選手は勝てなかった。

浜田選手は1979年のデビュー。礼儀には厳しい長野ハルマネジャーも、浜田選手を知ってからアマ界に対するイメージを変えたという。7年目の世界初挑戦。浜田選手のファイトマネーは破格の1500万円。オプションを握られているチャンピオンを凌ぐ金額である。

「これまでの努力、人気からいってもこれくらいはあげないと」(長野マネ)

テーマ曲”ヒーロー”が流れる中、颯爽とリング登場の浜田選手は気合十分。一方の王者も試合が近ずくにつれ、緊張感が高まった。

「浜田!頼むぞ~!」

「スタミナは3回で使い切る」という覚悟の浜田選手は、「1ラウンドからケンカのつもりで行け」という陣営の指示に従い、試合開始ゴングから猛烈なスパートを仕掛ける。途中、レネの引きながら打つ強烈な左フックを喰らったが、「脳天まで響くパンチ。あれでは最後まで行けない」と、迷うことなく前進。

そして、「勝っても負けてもKO、歴史に残る試合になります」と言う、試合前の本田会長の予言は見事に的中。初回終了間際、浜田選手の強烈なコンビネーションブローの前に、レネは深々とキャンバスへ眠った。

「力ではなく、自分の運を信じていた」(浜田選手)

あれから40年。理屈だけで終わらせる事ない、自分の運を信じた浜田選手に続く戦い方をするボクサーの出現を期待。