新日本木村ジムの創始者である木村七郎氏が3月7日、逝去された。享年90歳。宮城県出身の木村氏は1956年12月に新橋にあった新和拳からプロデビュー。全日本フライ級新人王を獲得。元東洋王者の三迫仁志(野口)選手に勝利。メルボリン五輪出場代表からA級デビューとなった米倉健志(日興)選手のデビュー戦相手も務めた。1959年、最高位、東洋フライ級2位を最後に引退。1961年、木村ジムを創設。日本プロボクシング協会の会長も務め、世界王者の大熊正二選手をはじめ、多くの日本、東洋・太平洋王者を育成した。
最初に手掛けたのは、路上駐車が原因の喧嘩が縁でプロデビューする事になった高山勝義選手。高山選手はデビュー戦こそ敗れたものの、その後は一つの引き分けを挟み32連勝。1965年10月、時の世界フライ級王者サルバトーレ・ブルニ(イタリア)を判定で破ったが、翌66年1月に行われたオラシオ・アカバリョ(アルゼンチン)との世界王座決定戦ではスプリット判定で敗れる惜敗。

高山選手は風貌が似通った歌手の北島三郎氏からの応援を受け、義兄弟といわれるほどの関係だった。高山選手で果たせなかった世界の夢を託されたのは大熊正二選手。
大熊選手は1974年5月に地元、福島県郡山市でWBC世界フライ級王者ベツリオ・ゴンザレス(ベネズエラ)とノンタイトル戦で対戦のチャンスを掴む。バンタム級で連勝街道を突っ走っていた大熊選手だが、「ウェートは大丈夫。勝てばタイトルを賭けてやってくれるって言うから、チャンスかなと思って」と木村会長は勝負に出た。
試合は僅差の判定負け。しかし、この試合をリングサイドで観戦していたホセ・スライマンWBC会長が大熊選手の奮戦を評価。敗れたにもかかわらず世界10位にランクインする。木村会長はすぐさまゴンサレス陣営に世界タイトルを賭けた再戦を申し込むと、ゴンサレス陣営は自信満々でこの挑戦を受け入れた。
1974年10月、東京・日大講堂で行われた王座を賭けた再戦は、大熊選手が判定で勝利。木村氏は念願である世界王者のマネジャーとなった。しかし、大熊選手の王座は長く続かない。1975年1月の初防衛戦でミゲル・カント(メキシコ)に僅差の判定で敗れ王座陥落。

その後、王座奪還を賭けカントの持つ王座に2度挑むも判定負け。1979年1月にはWBA王者となっていたゴンサレスへ挑戦するが無念の引き分け。同年7月の再チャレンジでは12回KO負け。この試合後、大熊選手は「一度はチャンピオンになったし、5回続けて世界挑戦に失敗して、もう十分な気持ち」と弱音を吐き、木村会長も、「力が抜けた、もう燃え尽きた感じ」と落胆。
しかし、木村会長はまたしても大熊選手にチャンスを作る。1980年5月、戒厳令下の敵地ソウルでカントからWBC王座を奪っていた朴賛希(韓国)への挑戦が決まる。3度カントに勝てなかった大熊選手が、カントに勝った若き朴に挑む試合は「望みなき挑戦」とまで酷評されたが、大熊選手は強烈なボディブローで朴をKO。奇跡の王座返り咲きを果たす。

敵地で勝ち名乗りを受けた大熊選手は、「今日は燃えました。自分の為じゃない、自分の子供より俺に賭けてくれた会長をもう一度世界チャンピオンのマネジャーにしたかったんです。うれしい」と号泣。木村会長にとっても会心の勝利となった。
「俺がやりたいのはトレーナー」だと語っていた木村会長は、他ジムで目が出なかった選手の再生にも優れた手腕を発揮。4連敗を記録した友成光選手を移籍後、日本王者に押し上げ無敗のままサムエル・セラノ(プエルトリコ)のWBA世界スーパーフェザー級王座へ指名挑戦させる等、6人の移籍選手が日本タイトルを獲得している。
ハワイの伝説のトレーナー、スタンレー・イトウ氏のアシスタントを詰める事になった私は、高円寺に在った旧木村ジムを借り受ける事になって以来、様々なシーンで木村会長と接する機会があり、本当にたくさんのことを勉強させていただ。ありがとうございました。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
