ヨネクラジム所属の第2、4代日本スーパーバンタム級王者の清水 精 (享年62歳)氏が逝去されてから、今年で15年になる。「お~い金元、いるかァ~!」と大きな声を張り上げて、突然、ハワイ・カカアコジムにやってこられた清水さん。スタンレー・イトウ先生と共に、食事、ボクシング談議にカラオケ。ジムから近い、ダウンタウンのはずれにある元世界スーパーフェザー級王者上原康恒さんの親戚がやっているというお店には、よく連れて行ってもらいました。

「俺なんかファイトマネー100万円に、激励賞200万円位だったけど、今はどうなの?」

「エッ、そんなに貰っていたんですか!」

清水氏が日本王座を獲得した1969年当時の物価は、ラーメン1杯88円、カレーライスが128円、ビール(大瓶)140円、大卒初任給が34,100円という時代。

「いやァ~、米倉会長は激励賞、そのままくれたからなァ。ありがとうございました会長」と、カカアコジムに飾られている米倉会長の写真に向かって最敬礼の清水氏。若き師弟コンビは息が合っていたようである。

”栄光か死か!”をモットーに、”KOセールスマン”の異名をとった清水氏のボクシングは、いさぎよく倒すか、倒されるかで、派手で見るものをしびれさせた。昭和22年8月27日、山梨県甲府市で生まれた清水氏は、男ばかり4人兄弟の末っ子。中学2年の時、埼玉県蕨市に移住。元日大のアマ選手だった父清氏の影響を受け幼少時からボクシングに勤しんだ。

清水氏は東京都北区の成立学園高校在学中からヨネクラジムに入門。その理由は、、「最初は王子の帝拳ジムへ行ったんです。だけど、前に喧嘩したヤツが練習していたので、やめてヨネクラジムへ入ったんです」。そして、父の大反対を押し切って、昭和39年(1964年)12月25日にプロデビュー。

アマ戦績16勝(13RSC)2敗を引っ提げての初陣は、山口 毅 (ベア)選手が相手。しかし、「リングに上がると、カーッとしてしまった。どんな試合だったか全く覚えていない。何しろ、控え室へ帰ってはじめて判定負けと知ったんだから」。プロの水は苦かった。

「ちょこちょこと打っては逃げ、逃げては打つようなボクシングは僕の趣味じゃない」という清水選手は黒星スタートとなったが、1966年度の東日本フライ級新人王戦を決勝まで勝ち上がる。しかし、新関利幸(協栄)選手に判定負けを喫し、新人王の座を逃した。

「新人時代の思い出で、一番口惜しかったのが新関君に負けた試合だった」(清水氏)

清水選手のプロボクシング界入りは、「将来はなんとしてもアメリカへ行きたい。だから英語をしゃべれるようにしたい。ボクシングをやっていれば、そのチャンスもあると思って・・・・」というのが強い理由である。

1967年11月、清水選手に海外遠征の話が持ち上がり、グアムへ遠征。初の10回戦で、グレグ・パンゲリナン(フィリピン)を3回TKOで破り、すっかりグアムが気に入る。1968年はグアムで4戦しているが、「自分は1ドルしか持っていかなかった。試合までは外出せず集中し、ファイトマネー貰うまで我慢した」という強いプロ意識を持ち合わせていた。

この年、韓国でも戦った清水選手は2試合連続KO負けとなったが、そこに付け込んで日本王者太郎浦 一 (新和)選手から挑戦の声がかかる。1969年2月12日、東京・後楽園ホールで太郎浦選手の持つ日本スーパーバンタム級王座に挑戦した清水選手は、TV初登場。リングへ上がる前のインタビューで、「倒します!」と言ってのけた専修大学文学部英米科2年生の挑戦者は、9度防衛中の王者を3ラウンドでKOする大番狂わせで、日本の頂点に上り詰めた。

王座陥落後1位にランクされた太郎浦選手は、リターンマッチの権利があったが引退。初防衛戦は東京五輪強化指定選手だった元トップアマの同級2位中島健次郎(船橋)選手が相手と決まる。4月30日に行われた清水選手の初防衛戦は、試合開始早々から激しい打撃戦となり、チャンピオンは右目上をカット、挑戦者も鼻血を流し、早くも凄惨な流血戦。右フックで清水選手がダウンを奪うが、再開後、あせって攻め込んだ所に中島選手の捨て身の左フックがヒット。清水選手が大きくぐらつき初回終了。

第2ラウンドは互いに左右フックを中心とした乱打戦となり、挑戦者がボディ攻撃から右フックを決めると、今度は清水選手がダウン。立ち上がったが、左フックで二度目のダウン。最後はボディブローが突き刺さり清水選手は3度目のダウン。わずか2ヶ月でアッサリとタイトルを手放してしまった。

「清水君は僕が今まで戦った中でも、一番パンチが強くこたえました」

勝利後の新チャンピオンは、倒したことも倒されたことも、そして試合の勝敗さえも覚えていない。敗者も何が自分に起こったのかわかっておらず、「倒すか、倒されるか」をモットーとする、”KOセールスマン”・清水選手らしい試合ぶりだった。

両選手の再戦はすぐに決まった。7月23日、清水選手は「一発殴られたら、5発殴り返すつもり!」と宣言しリングに登場。そして試合はまたもや初回から白熱。2回には両者が流血し、激しい打撃戦となったが、前半戦を抑えたのはチャンピオンで、5回を終えて二者が1ポイントリード。しかし、6回には清水選手が、右アッパーを決め反撃。

7回。中島選手会心の右フックが決まると、清水選手は大きくのけぞりダウン。再開後、一気にフィニッシュを狙う中島選手に対し、「この野郎!」と火がついた挑戦者は真っ向から応戦し、怒涛の反撃。場内は興奮のるつぼと化した。このラウンド、森田 健 レフェリーは、ダウンがあったにもかかわらず5-4としている。

8回。俄然有利となったチャンピオンがKOを狙い前進し、得意の右フックを振るう。ここに挑戦者は思い切りよく右アッパーを突き上げる。これがモロにカウンターとなってチャンピオンのアゴを打ち抜くと中島選手はダウン。仰向けにひっくり返った中島選手は、立ち上がろうと体を一回転させるが、そのまま動けず、うつぶせのまま森田主審のテンカウントを聞いた。

「生涯最高の思い出の一戦」(清水選手)。

「全力を尽くしたので、負けても全然悔しくない」(中島選手)。

後楽園ホールの観衆を熱狂と興奮の渦に巻き込んだこの試合は、この年7試合(国内)行われた世界タイトルマッチを押しのけて、1969年度の年間最高試合賞に輝いている。

日本王座奪還に成功した清水選手は1969年11月9月16日、ハワイへ遠征。ホノルルでカーリー・デキノ(フィリピン)と対戦するが3回TKO負け。その後、11月19日に中島選手との第3戦が決まる。そしてこの試合も、倒し倒されの大激戦となる。初回に倒されたのは清水選手だったが、2回に倒し返し逆転のKO勝ちで初防衛に成功。ライバル対決に勝ち越した。

1970年2月20日。清水選手は約3ヶ月の予定で、ロサンゼルスへ遠征。念願のアメリカ本土を始めて訪れた。仲介は米倉会長が挑んだ世界バンタム級王者ジョー・ベセラ(メキシコ)を育て上げ、黄金のバンタム、エデル・ジョフレ(ブラジル)をプロモートした、名プロモーターのジョージ・パーナサス氏で、月百ドルのホテルに泊まり、朝5時起床でロードワーク。9時から午後1時まで英語学校で授業(これはサボリが多かったとか)。それが終わるとホテルの二階にあるジムで練習という毎日。

このエレックス・クラブというホテルで偶然知り合ったのが、怪物といわれていた世界バンタム級王者ルーベン・オリバレス(メキシコ)。言葉が通じずとも何となく気が合ったという二人は、約1ヶ月間スパーリングをしたり、食事を共にしたりの生活を過ごし、清水選手はメキシコのオリバレスの実家まで足を延ばすほどの仲になった。

「絶対にもう一度ロスへ行く」。帰国後の清水選手の頭はアメリカが大きく支配したようです。1970年11月、アタック原田(クラトキ)選手にまさかの判定負けで3度目の防衛に失敗すると、わずか3週間足らずで韓国のリングに上がり、金 炫 (韓国)に判定負け。これを最後に清水選手は現役を引退。

リングに別れを告げた清水氏は念願の米国へ渡る。ハワイで観光業を営むかたわら、プロモーター業を開始。吹打 龍  (ヨネクラ)選手、大久保克弘(三迫)選手等、多くの日本選手の面倒も見た。

「俺はヨネクラだけど、協栄の選手と仲いいんだよなァ。金平さん(正紀氏・協栄ジム創設者)にはお世話になったなァ。お客さんたくさん紹介してくれてさ」

清水氏はロサンゼルス、ハワイで戦い、西城正三(協栄)選手が世界チャンピオンとなるロサンゼルス遠征のきっかけを作った、元協栄ジム・チーフトレーナーで、元沖ジム会長の宮下 攻 氏とは兄弟分という間柄。宮下選手はハワイでは、8千人以上の観衆を呼ぶ人気選手だった。

「世界チャンピオンも作ったんだよ」

「エッ、誰ですか?」

「ローランド・ナバレッテ(フィリピン)」

1980年4月、アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)の持っていたWBC世界スーパーフェザー級王座に挑戦し敗れたナバレッテは、1981年1月、清水氏のプロモートによりハワイのリングで再起すると、8月29日にラファエル・”バズーカ”・リ問(メキシコ)からWBC世界スーパーフェザー級王座を奪っていた、コーネリアス・ボサ・エドワーズ(ウガンダ)へ挑戦のチャンスを掴む。

遠くイタリアでの挑戦だったが、ナバレッテは5回KOで見事世界王座を獲得。”バッド・ボーイ”・ナバレッテは、世界チャンピオンとなり一躍祖国の英雄となったが、ボクシング・ビジネスは難しい。栄光と欲。それを取り巻く、様々な人々。この時、ビジネス的に色々といやな思いをされた清水氏は、さっぱりとボクシング界から身を引いて行った。

ハワイを後にロサンゼルスへ渡った清水氏は、ビジネスの世界で成功を収める。

「クワシのオフィス、すっごく大きいねェ。ビックリした」(スタンレー・イトウ氏)

米倉会長に抱かれているのがレイナ氏。下写真は2017年11月、カカアコジムを訪れたレイナ氏のご家族。

後年、ハワイに住む”伝説のトレーナー”、スタンレー・イトウ先生を大変大事にされておられた清水さんは、月に一度開かれるハワイ・ボクシング界のミーティングにも参加。カカアコジムでイトウ先生のサポートをしていた私にも、「困ったことあったら何でも言って来いよ」と気を使ってくれた。

「最近、つまんないんだよなァ」とおっしゃられていた清水さんの心にあったのは、やはりボクシングだったようで、ハワイボクシング界の活性化を願い、2009年11月28日に拓大チームと地元選手の対抗戦をホノルルで開催すべく尽力されたが、その実現を前にした10月6日、清水氏は62歳の生涯を閉じた。しかし、その意思はご家族により引き継がれ、「第1回清水精記念」は、無事ホノルルで開催されている。

今年5月、ロサンゼルスに住む清水氏の息女レイナ氏から、「今年で父が亡くなり15年になります」とのメールを頂き、そこには私の過去に書いた清水氏の記事を何度も読み返していますとあり、「ありがとうございました。とても感謝しています。父も喜んでいるに違いありません」と記されており、心が震えました。

また、貴重な写真も送って頂き、ここに改めて清水 精 氏の軌跡をまとめました。あれから15年。今でも、「お~い金元、いるかァ~」の清水さんの声がよみがえってきます。ありがとうございました。