1986年8月26日、東京・両国国技館で行われたWBC世界フライ級タイトルマッチ。王者勇利・アルバチャコフ(協栄)選手に渡久地隆人(十番TY)選手が挑んだタイトル戦から30年。日本軽量級屈指の好カードは、勇利選手が9回TKO勝ちを収め、この年の年間最高試合に選出された。
ロシアのペレストロイカ政策によりアントニオ猪木氏の口利きで来日。協栄ジムと契約を締結した元アマ世界王者の勇利選手は、1990年2月にチャコフ・ユーリの名でプロデビュー。「外人選手であろうと日本で世界挑戦を目指すなら、まず日本のベルトから」という大竹重幸マネジャーの発案で、A級トーナメントに出場しあっさりと優勝。
1991年チャンピオンカーニバルの超目玉カードとして、12戦全勝11KO勝ちのレコードを誇る時の日本フライ級王者ピューマ渡久地(ビクトリー)選手への挑戦が決まる。勇利選手はプロ転向以来、6戦全KO勝ち。試合は1991年3月21日に東京・後楽園ホールでの開催が決った。
「渡久地はとても強い」挑戦者も十分チャンピオンの強さを認識していた。勇利が強いと水を向けられると、ムッとして拳を突き出して見せた渡久地選手。デイリースポーツのベテラン芦沢記者の予想は、チャンピオンのKO防衛。

2月4日、後楽園ホールの前売り券発売には長い行列が出来た。しかし、この試合のチケットは発売中止となる。原因は渡久地選手のケガとされ、日本タイトルを返上し、ジムから姿をくらましてしまった。
プロではまだ試されていなかった勇利選手が、やんちゃな喧嘩ファイター渡久地選手とこの時戦っていたならば、その結果はどうなっていたかわからない。この時の渡久地選手は2年半のブランク後にはない、獰猛さを持っていた。
王座決定戦で軽く日本王座を手に入れた勇利選手は、一気に世界王座へと駆け上がる。渡久地選手はJBCから無期限出場停止の厳しい措置が取られた後、1993年4月に世界ランカーのへスス・ロハス(ベネズエラ)を相手に再起戦のリングに臨むが、ロハスの技巧の前に初黒星。
その後、ようやく日本王座復帰を果たした渡久地選手に、勇利選手の持つ世界王座挑戦話が持ち上がるが、渡久地選手のブランクの間に二人の地位は、あまりに大きくかけ離れてしまっていた。
初戦決定時のトラブルから、少なからずしこりがあった両陣営。ようやく渡久地選手側のOKが取れたと思いきや、今度はチャンピオンがゴネ出した。「もっとファイトマネーを上げてくれ」。
8度タイトルを防衛している自負。そして、この試合が大きな話題に上がっている事を知った王者は、「そんなに騒がれるなら、もっと出してもいいだろう」という単純な考えだが、誰も説得出来ない。試合は決定直前、暗礁に乗り上げた。
しかし、ここで大竹マネジャーは勇利選手に提案を持ち掛ける。「勇利、この試合そんなに人気があるなら、TVの視聴率15%越えたら、1%に付き百万円のボーナスをだそう。それならいいだろう」という提案に、勇利選手は乗った。ようやく契約がまとまった。

5年の歳月を経ての対戦は、チャンピオン圧倒的有利。しかし、挑戦者の「勇利には負けない」という執念に期待が賭けられた。
そして試合開始ゴングが鳴る、しかし、世界の舞台で戦い続けて来たチャンピオンは強かった。挑戦者が「ピューマ渡久地」であったなら。「5年前の日本タイトル戦を見たかった」という浜田剛史氏の言葉は、ファンの胸中を代表したものだろう。
序盤から距離を支配した勇利選手は、ジャブを主体のアウトボクシング。渡久地選手はそれを追えず強打は空転するばかり。7回、勇利選手の左フックで渡久地選手はダウン。再開後、勇利選手の速射砲が炸裂。打ちまくられた渡久地選手は腰からキャンバスへ崩れ落ち2度目のダウン。
ここも立ちあがった渡久地選手は勝利への執念を見せる。迎えた第9ラウンド、死力を振り絞って逆襲に出るがかなわず、打ち疲れ疲れ果てる。勇利選手はこれを見逃がさない。ロープ際に挑戦者を追い込むと、芸術的なコンビネーションブローを畳みかける。試合は終わった。
この試合を放映したTV東京の視聴率は12.4%。勇利選手のこれまでの防衛戦を越える最高をマーク。9度目の防衛に成功した勇利選手だが、この勝利が現役最後の白星となるとは、夢にも思わなかった。
